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「子供が礼儀正しく育ったよ」名手ブラジル人DFと妻が感謝する“Jリーグと日本愛”「イハラはクレバー、ナカヤマは非常に危険で…」 

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沢田啓明

沢田啓明Hiroaki Sawada

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photograph byEtsuo Hara/Getty Images

posted2023/05/20 11:02

「子供が礼儀正しく育ったよ」名手ブラジル人DFと妻が感謝する“Jリーグと日本愛”「イハラはクレバー、ナカヤマは非常に危険で…」<Number Web> photograph by Etsuo Hara/Getty Images

1994年1月のJリーグチャンピオンシップでのペレイラ。当時のJリーガーとマッチアップして、何を感じていたのだろうか

「いや、全然(笑)。他の誰かだと思っていた。それまでの苦労がすべて報われた気がした」

――当時、ヴェルディにはスター選手が多く、カズ、武田(修宏)、北沢らはロックスターのような騒がれ方をした。オフには、連れ立って繁華街へ繰り出したこともあったようですね。

「彼らはね。でも、僕は家庭があったからほとんど行かなかった。一度だけ、原宿のディスコへ行ったことがあるかな」

ファン人気とか意識してる選手はいたね

――当時の主力選手たちの関係は?

「仲はいいんだけど、誰が一番人気があるとか、ファンからのプレゼントが多いとか、CMにたくさん出ているとかを意識していた者もいた。誰とは言わないけどね(笑)」

――1994年限りで松木監督が退任し、1995年はネルシーニョ監督が指揮を執った。チーム作り、戦術面での変化は?

「それまでもネルシーニョが戦術面を担当していたから、大きな変化はなかった」

――後期は1位で、チャンピオンシップで横浜マリノスと対戦したが、準優勝。あなたは、ヴェルディを退団します。

「ネルシーニョから、『若い外国人選手を獲得した』と言い渡された。それで、ヴェルディにはもう自分の居場所はないと理解した」

――1996年初め、東芝(当時JFL)に入団し、札幌へ移転してコンサドーレ札幌となります。当初のチームの印象は?

「アマチュアクラブで、練習場もクラブハウスもなく、選手はユニフォームを自宅へ持ち帰って洗っていた。しかし、次第にクラブとしての体裁が整い、強化が進んだ」

――1997年にJFLで優勝してJリーグへ昇格。1998年、あなたは3年ぶりにJリーグの舞台へ戻りました。創設から6年目のJリーグでプレーした感想は?

「チーム数が18まで増え、レベルが向上していた。クラブがアカデミーを持つことを義務付けられ、選手を育ててきた効果が出ていた」

―この年限りで札幌を退団し、日本でのキャリアに終止符を打ちます。日本では多くのアタッカーと対戦しましたが、マークするのが最も難しかった選手は?

「ジュビロのナカヤマ(中山雅史)は、体が強く、突破力があり、非常に勝負強い危険なストライカーだった」

――最も優れていると思ったDFは?

「イハラだね。非常にクレバーで、次のプレーを的確に予測し、常に的確なポジションを取っていた。素晴らしい選手だった」

日本での生活で子供が礼儀正しくなりました

 横で我々の話を聞いていた妻のマルシーさんに、日本での生活について尋ねた。

「クラブのスタッフがいつも親身になって世話を焼いてくれたお陰で、とても快適に生活できました。

 そして、日本の人たちにはとても感謝しています。というのは、1992年に日本へ渡ったとき、長男が4歳、長女が1歳半でしたが、2人は日本で他人に敬意を払って迷惑をかけない、礼儀正しく親切にする、という日本の文化の影響を受けた。そのお陰で、ブラジルでは周囲の人から『素晴らしいお子さんですね』と褒めてもらえるんです」

 これを聞いたペレイラも、「自分も日本で多くのことを学んだ。それは、人生の宝物となっている」と笑顔を浮かべた。#3につづく>

#3に続く
「ミトマのドリブルにクボの技術、トミヤスの賢さを楽しんでる」JリーグMVP男ペレイラ63歳は今、何を?「ブラジルで日本の学びを…」

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