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「おう!また負けに来たんか」名将・高嶋仁を“勝負師”に変えた甲子園のヤジ…智弁和歌山が“初めて負けた夏”から積み重ねてきたこと

posted2022/08/10 06:00

 
「おう!また負けに来たんか」名将・高嶋仁を“勝負師”に変えた甲子園のヤジ…智弁和歌山が“初めて負けた夏”から積み重ねてきたこと<Number Web> photograph by Tadashi Shirasawa

歴代最多の甲子園通算勝利数「68」を誇る智弁和歌山・高島仁前監督。知られざる挫折を乗り越え、名将の地位を築いていった

text by

日比野恭三

日比野恭三Kyozo Hibino

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photograph by

Tadashi Shirasawa

昨夏の王者・智弁和歌山、そして今年も優勝候補筆頭に挙げられる大阪桐蔭。いまや押しも押されぬ強豪となった2校だが、決して平坦な道を進んできたわけではない。“甲子園初黒星”の記憶を中心に、その道のりを辿った。これまで有料公開されていたNumber958号(2018年8月2日発売)『常勝軍団の知られざる挫折 関西の雄が初めて泣いた夏』を特別に無料公開します(全2回の1回目/#2大阪桐蔭 編 ※肩書き、年齢などすべて掲載時のまま)

 高嶋仁が智弁和歌山野球部の監督に就任したのは1980年、創部2年目のことだ。

「大学を出てすぐ奈良の智弁学園でコーチをやって。3年契約やったんです。その3年目に当時の監督が理事長とケンカして、お前が監督せいとなった。それ引き受けたばっかりに、(奈良での10年を含めて)もう48年ですよ。契約した理事長は死んでもうておらへんじゃないですか」

 炎天下のグラウンド脇、屋根はあっても熱気のこもるベンチに座り、高嶋は笑う。

 齢70を超えたいま表情は柔和になったが、和歌山に来た30代半ばのころは鬼だった。

 校内から部員をかき集め、とことん負荷をかけた。池田高校の蔦文也監督に頼んで練習試合を組み、「数えきれんぐらいの」点を取られて、選手たちに意識改革を促した。屈辱を糧に伸びたチームは1年目の夏の大会でシード校相手に1勝を挙げる。まだ校歌もなく、やむを得ず智弁学園の校歌を流した。いまと違い紫を基調としたユニフォームに身を包んだ部員たちは、聞き慣れぬメロディにただ耳を傾ける。部はそんなところからスタートした。

夏の甲子園初出場は1987年

 85年選抜大会で智弁和歌山として初めて甲子園で試合をしたが、初戦敗退を喫した。

 2年後の87年が節目の年となる。新設の進学校に生徒は集まり、野球部への入部者も少なくはなかったが、覚悟がなかった。苛烈な指導に部員数が安定せず、見かねた理事長がスポーツコース(当初の名称は国際コース)の設置を提案した。1学年あたり10名の精鋭を募るようになったのだ。

 同年夏の県大会で決勝に進み、吉備高校と戦った。1-1の9回裏、1アウト満塁のチャンス。ここで代打に送られたのが、国際コース1期生の、上出剛一だった。

「初球や。アウトコースのまっすぐが絶対に来るから踏み込んでいけ」

 高嶋の指示どおりに上出はバッターボックスの白線を踏んでバットを強振した。鋭い打球がセンター前に抜け、サヨナラの走者が生還。夏の切符を初めて手に入れた。

 だが、当時の部員たちにとってはそこがゴールのようなものだった。上出は言う。

「和歌山で勝った喜びだけ。甲子園での目標なんて、なかったと思いますよ」

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