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《追悼》“グラブ作りの名人”が生前語っていた「最も難しかった注文」とは? 星野仙一は“小さい”、鈴木啓示は“重い”の納得のワケ

posted2022/04/11 11:00

 
《追悼》“グラブ作りの名人”が生前語っていた「最も難しかった注文」とは? 星野仙一は“小さい”、鈴木啓示は“重い”の納得のワケ<Number Web> photograph by Kazuhito Yamada

イチロー氏や星野仙一氏ら、名だたる名選手のグラブを手掛けた坪田信義さん。名工が語った「最も難しかったグラブ」とは

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小西斗真

小西斗真Toma Konishi

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Kazuhito Yamada

 4月5日付けの朝刊各紙に、短い訃報記事が掲載されていた。以下、引用する。

<坪田信義さん(つぼた・のぶよし=元ミズノ野球グラブ職人)3日死去、89歳。
 大阪府出身。48年ミズノ入社。王貞治氏やイチロー氏、松井秀喜氏ら数々の野球選手のグラブを手がけた。98年に労働省(現厚生労働省)の「現代の名工」に選ばれ、00年に黄綬褒章受章。ミズノの職人で最高位の「グラブマイスター」の称号を持ち08年に退社した。>(4月5日付東京新聞 TOKYO Web)

グラブ作り一筋の人生…日本製の普及に努めた

 1933年、坪田さんは大阪の下町に生まれた。父も鉄工所でモノ作りに携わる職工だった。戦時中は大阪空襲も体験し、浪華商(現在の大阪体育大浪商)に進んだ。野球部に入ったが、ほどなく退部。理由は「グラブがなかったから」。後に名人と言われる人物の、シュールすぎる実話である。

 15歳で就職し、以来60年。グラブ作り一筋の人生だった。今では初めて野球チームに入る小学生から当たり前の「ポジション別グラブ」を開発したのも、坪田さんだった。それまでは投手、捕手、一塁の他は内野手、外野手とおおざっぱだったものを細分化。さらにプロモデルを採用し、フルオーダーのグラブへと進化させていった。

 当時のプロ野球選手は、メイドインUSAのグラブを使用するのが当たり前だった。日本製はまだまだ質で劣ると考えられていたのだ。各球団を回り、販路拡大に努めた。最初はけんもほろろだったが、少しずつ固い門が開いていく。最初のターゲットは巨人と阪急。強いチームのトップ選手にアタックする戦略が功を奏した。

名投手のグラブ作り…どんな要望があった?

 訃報記事にあるように、坪田さんの名声が世に広まったのはイチローや松井のグラブを手がけていたからだ。とりわけグラブにも超一流を要求するイチローとの緊迫したやりとりは、野球ファンも知っていることだろう。

【次ページ】 異例だった“星野仙一のリクエスト”

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