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名言「ふなきぃ~」24年前・伝説のジャンプ団体金メダル…あの「白馬村」には今、何がある? 現地で驚いた「帰りの『特急あずさ』が満員だった話」 

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鼠入昌史

鼠入昌史Masashi Soiri

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photograph byJIJI PRESS

posted2022/02/19 17:03

名言「ふなきぃ~」24年前・伝説のジャンプ団体金メダル…あの「白馬村」には今、何がある? 現地で驚いた「帰りの『特急あずさ』が満員だった話」<Number Web> photograph by JIJI PRESS

98年長野五輪、スキージャンプ団体優勝メンバー。フラワーセレモニーで観客に手を振る日本チーム。左から船木和喜、原田雅彦、岡部孝信、斎藤浩哉(長野県白馬村)

 バブルただ中の1988年に長野市が開催候補都市として立候補。1991年に開催が決定する。白馬ではアルペン、ジャンプ競技のほかにクロスカントリーも行われている。ジャンプ競技場は開催決定に先駆けて建設がはじまり、1992年に完成。こけら落としの全日本ジャンプスキー選手権大会の初日(93年1月30日)、ノーマルヒルでは葛西紀明(当時20歳)が優勝している。いやあ、葛西さん、とてつもないレジェンドですよね、やっぱり。

 ちなみに、去年の東京オリンピックが無観客だったせいもあってあまりイメージがわかないが、長野オリンピックはもちろんたくさんのお客を入れて開催されている。だから観客輸送のための臨時列車も運転されていて、大糸線白馬駅にはジャンプ競技に合わせて新宿・名古屋や関西方面からの夜行列車がバンバン走った。例えば、開催期間中の2月7日から22日までは臨時急行「アルプス」が新宿から。名古屋からは「つがいけ」が走り、関西方面からは「白馬・栂池」が北陸本線糸魚川経由で白馬まで乗り入れている。特急「あずさ」(当時は「スーパーあずさ」といいました)や「しなの」も臨時列車を運転し、まあとにかく単線ローカルな大糸線が賑わったのだ。

白馬で坪単価300万円のコンドミニアムが売れた

 そうした長野オリンピックが終わってもう24年が経つ。いまの白馬も、リゾート地であることは変わらない。スキーブームの最後の花火、長野オリンピックが終わると文字通り冬の時代に入る。日本中がそうだったのだから仕方がない。2012年には八方尾根スキー場の経営から東急も撤退した(白馬東急ホテルはまだあります)。そうした中で、インバウンドを頼りの綱にする。外国人富裕層をターゲットにコンドミニアムホテルを売り、外国人たちは自分たちが利用しない時期には他の客にそれを貸して運用するというスタイルも定着しつつあったという。オーストラリアやカナダの人たちが、坪単価300万円台の超お高いコンドミニアムホテルをぽんと買ってくれたというのだから、インバウンド侮ることなかれ。

 そんな希望もコロナのせいでどこへやら。いまの白馬が苦しさを増していることは間違いないだろう。

 とはいっても、2月半ばの三連休最終日という訪れた日が良かったのか、町はリゾート客で大賑わいであった。1日1本しか走っていない新宿行き「あずさ」の出発時間が近づくと、スキーやスノボの板を担いだ人が次々とバスやタクシーで駅までやってくる。1つしかない券売機には長い列ができ、待合室は座るところなんてもちろんないくらい。駅員さんが「大変混雑しております」「『あずさ号』には200名ほどのお客さまの乗車を見込んでおります」などと放送している。

 満員に近い特急列車に乗るのはずいぶん久しぶりだった。松本あたりで少し降りてくれないかなと期待もしたが、やっぱりほとんどが東京方面まで乗り通すようだ。学生グループ、カップル、ファミリー、そして外国人の姿まで。2年ぶりに乗った白馬からの満員の「あずさ」に、ちょっとだけコロナ禍前に戻ったような気分になった。リゾート地・白馬、さすがである。

(写真=鼠入昌史)

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