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「えっ!《ボランチ=舵取りが語源》って間違いなの?」 日本でほぼ無名な「名MFカルロス・ボランチ」の革命的功績とは 

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沢田啓明

沢田啓明Hiroaki Sawada

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photograph byTakuya Sugiyama

posted2021/12/20 17:00

「えっ!《ボランチ=舵取りが語源》って間違いなの?」 日本でほぼ無名な「名MFカルロス・ボランチ」の革命的功績とは<Number Web> photograph by Takuya Sugiyama

2007年アジア杯の(左から)鈴木啓太、中村憲剛、遠藤保仁。タイプの違うボランチとして輝いたが、その「ボランチ」の語源を探ってみると……

 当時、イタリアは国家ファシスト党のベニト・ムッソリーニが独裁体制を敷いており、強制的に軍隊へ入れられそうになった。兵役を逃れるため、一家でイタリアから逃亡。スイスを経て、フランスに入国した。

 今でもそうだが、優れたフットボーラーは世界中どこへ行っても仕事がある。フランスではレンヌ、リール、CAパリでプレーした。

現役なのに“1938年W杯のブラジル代表スタッフ”に?

 ところが、彼はまたしても時代に翻弄される。

 第二次世界大戦の足音が忍び寄ってきており、戦火を逃れるためアルゼンチンへ戻りたいと考えた。しかし、当時、イタリア国籍の妻と子供を連れて欧州から南米へ渡るのは容易ではなかった。

 1938年6月、フランスで第3回ワールドカップが開催され、南米からはブラジルだけが参加した。そこで、大会後、ブラジル代表の一行に紛れ込んでブラジルへ渡ることを考え、知人の口利きでマッサージ師としてブラジル代表のスタッフに加わった。

 彼が本当にマッサージができたかどうかはわからない。しかし、選手なのでマッサージを受けた経験はあるはず。見よう見まねで、何とかこなしたのではないか。

 この大会で、当時は南米の新興国にすぎなかったブラジルが躍進する。スピード、テクニックに加えて柔軟な体から「ゴム男」と呼ばれ、オーバーヘッドキックが得意だった黒人選手レオニダス・ダ・シウバ(当時フラメンゴ)を中心とする攻撃陣が5試合で14得点。準々決勝でチェコスロバキアを下し、準決勝でこの大会の覇者イタリアにこそ敗れたが、3位決定戦でスウェーデンを下して3位に食い込んだ。

 ウルグアイで行われた1930年の第1回W杯のグループステージで敗退し、1934年大会では初戦で敗れ去った“弱小”ブラジルが、初めて世界の頂点に近づいたのである。

 レオニダスは7得点をあげて大会得点王に輝き、守備の要ドミンゴス・ダ・ギア、GKヴァウテールもフラメンゴの選手だった。

ブラジルへ”帰国”したのち、フラメンゴに入団

 大会終了後、ボランチは当初の目論見通り、ブラジル代表の一行と共に大西洋を渡り、当時の首都リオデジャネイロに着いた。そして、祖国アルゼンチンへは戻らず、リオに本拠を置くフラメンゴに入団する。

 この間の事情はよくわからないが、レオニダスらフラメンゴの選手がクラブとの橋渡しをしたのかもしれない。

 フラメンゴは、当時も現在も、ブラジル最大の人気クラブである。

「第2回」では、ブラジルへ渡ってからのカルロス・ボランチについて記したい。<続く>

#2に続く
「お前もボランチのようにプレーしろ」中盤深めで守備の要+攻撃の起点=ボランチ… “伝説の初代”ナゾ経歴を調べてみた

記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。

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カルロス・ボランチ

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