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3.11と東北スポーツの9年。楽天に
釜石ラグビー、J3八戸、いわきFC。
text by
川端康生Yasuo Kawabata
photograph byAFLO
posted2020/03/11 08:00
2019年ラグビーW杯、フィジー対ウルグアイ戦前の光景。世界に向けてサポートしてくれたことの感謝を発信した。
「W杯、やれたらいいんですけど」
「ワールドカップ? ……やれたらいいんですけどねぇ」
その声色に“現実”を突き付けられた気がした。
市街地からトンネルをくぐって、海を右手に坂を下ったあたり。そこまで来て進むべき方向がわからなくなって、道を尋ねた。教えてもらったお返しに、「何とか実現したいですね」とエールのつもりで付け加えたら、重い口調が返ってきた。
「そりゃ、やれたらいいですけど、でも、家がない、生活が立ち行かない、家族もいなくなった、そんな人たちが僕の周りにもいっぱいいるもんで。ワールドカップなんて言ってる場合だろうか、と。ましてスタジアムなんて……夢のまた夢というか」
「悲劇」と「奇跡」の現場であることはもちろん知っていた。それでも「鉄と魚とラグビーの町」への思い入れが強かった。だから「誰もが望んでいる」と安易に信じ込んでいた。
そして別れ際、もう1つ、現実を教えられて僕は絶句することになった。
「いま僕らがいるここ、ここが町の中心部だったんです。あそこらへんに駅があって、商店があって……」
目の前には土色の空き地がただ広がっているだけだった。茫然と立ちすくむすぐ脇を、ダンプカーがきしんだ音を立てて走り過ぎていった。
釜石で機運が芽生えたタイミング。
昨年久しぶりに訪れた鵜住居に驚かされた。新しいアスファルトの走りやすい道路。もちろんもう道に迷うこともない。それどころか三陸縦貫道が開通したおかげで釜石は以前とは比べようもないほど近くなった。
子供たちによって多くの命が救われた「奇跡」と、避難所だと思って逃げた建物で多くの命が失われた「悲劇」が交錯した場所には、美しいスタジアムと慰霊碑、それに伝承館が建った。
言うまでもなく、ここでラグビーワールドカップが開催された。「夢のまた夢」は現実になった。
経緯を知らない人のために簡単に記せば、ワールドカップの日本開催が決まったのは震災前の2009年。その時点では試合会場の候補に釜石は入っていなかった。「釜石でワールドカップを」の機運が芽生えたのはあの大災害に見舞われた後のことである。
よそ者が絶句して立ちすくんでしまったあの土埃の荒地にあってなお、いや、だからこそ釜石の人々はラグビーとワールドカップの旗を掲げたのである。