ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
成功例は武藤敬司、オカダは失敗!?
中邑真輔が挑む「凱旋」という道。
posted2016/08/18 11:00
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph by
Tadashi Shirasawa
「こんなに早く帰ってきちゃってすいません」
先月、WWE日本公演(7月1、2日、両国国技館)のために帰国した、WWEスーパースター、シンスケ・ナカムラこと中邑真輔は、会見でこんなコメントを残していた。
今年1月に新日本プロレスを退団し、4月にNXTでWWEデビューをはたして、まだ3カ月足らず。NXTでは無敗の快進撃を続け、早くもアメリカのファンから絶大な支持を得ているものの、WWEでしっかりと実績を残してから、本当の意味で「凱旋帰国」したかったというのが、中邑の本音だっただろう。
日本のプロレスは、力道山の凱旋で始まった。
日本のプロレス界にとって海外からの凱旋帰国というのは、古くからレスラーを売り出すための、最もポピュラーかつ効果的な手段のひとつだった。
そもそも日本のプロレスは、力道山が1年1カ月にわたるアメリカ遠征から凱旋帰国して、1954年にスタートさせたもの。力道山の死後、エースの座を継ぐかたちとなったジャイアント馬場も、アメリカで世界王座3連続挑戦(NWA、WWA、WWWF)の実績を引っさげて'64年に凱旋帰国し、人気が爆発した。
そして馬場のライバルとなるアントニオ猪木は、'66年にアメリカ遠征から帰国の際、馬場がトップを張る古巣・日本プロレスではなく、新団体・東京プロレスに電撃移籍。いきなり新団体のエースとなった。
その他、元柔道日本一の坂口征二は、ロサンゼルスでのUNヘビー級王座奪取を手土産に'72年に凱旋帰国。ミュンヘン五輪レスリング日本代表から全日本プロレス入りしたジャンボ鶴田は、いきなりデビューから約1年間アメリカ遠征を行い、凱旋帰国してすぐに、馬場に次ぐナンバー2となった。
かつて凱旋帰国という売り出し方は、幹部候補生を本場アメリカで箔付けさせ、団体のトップへと押し上げるためのものだったのだ。