ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER

成功例は武藤敬司、オカダは失敗!?
中邑真輔が挑む「凱旋」という道。 

text by

堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

PROFILE

photograph byTadashi Shirasawa

posted2016/08/18 11:00

成功例は武藤敬司、オカダは失敗!?中邑真輔が挑む「凱旋」という道。<Number Web> photograph by Tadashi Shirasawa

NXTのエースとして母国に熱を持ち帰る――中邑が新時代流の“凱旋帰国”を果たす日が待ち遠しい。

無名の若手からスターに変貌した藤波という成功例。

 それが、「無名な若手レスラーを一夜にしてスターに変身させる手段」となったのは、'78年の藤波辰巳(現・辰爾)凱旋帰国から。他のスポーツでの実績もなく、身体も大きくはなかった藤波はそれまでいち若手にすぎなかったが、ドイツ、アメリカ遠征を経て、'78年1月にニューヨークの殿堂マディソン・スクエア・ガーデンでWWWF(現WWE)ジュニアヘビー級王座を奪取すると一夜にしてスターとなり、3月凱旋帰国をすると、日本にジュニアヘビー級ブームを巻き起こしたのだ。

 その藤波と同じ“手法”で売り出されたのが、全日本の若手だった大仁田厚だ。大仁田はアメリカ遠征中、藤波のライバルだったチャボ・ゲレロからNWAインターナショナルジュニアヘビー級王座を奪取。そのベルトを引っさげて凱旋帰国し、全日本におけるジュニアの先駆けとなった。

お膳立て無しでの成功は、やはり武藤敬司が筆頭。

 このように、藤波の成功以降、多くの若手レスラーが海外遠征からの凱旋帰国を行ってきたが、日本の所属団体の“お膳立て”なしに、若手レスラーが自力で本場アメリカのトップレスラーとなり、本当の意味で“凱旋”したと言えるのは、やはり武藤敬司がその筆頭だろう。

 武藤は'88年に2度目の海外遠征に出ると、プエルトリコで現地のヘビー級王者となったのを皮切りに、アメリカ・テキサス州ダラス地区でトップを張ったのち、当時WWEと並ぶアメリカのメジャー団体だったNWAクロケットプロモーション入り。そこでペイントレスラー、グレート・ムタに変身すると、スティングや世界王者リック・フレアーと抗争を展開し、全米屈指のトップヒールにのし上がったのだ。

 そのムタの活躍は、日本でもプロレス誌、スポーツ紙で繰り返し報じられ、ファンの間では武藤待望論が広がり、その期待度がピークに達する中、武藤は凱旋帰国。'90年4月27日東京ベイNKホールで、同期の蝶野正洋とタッグを組み、マサ斎藤&橋本真也が持つIWGPタッグ王座に挑戦すると、独創的なムーブを次々と披露し、華やかなスター性とともにファンを魅了。そしてムーンサルトプレスでマサ斎藤をフォールし王座を奪取すると、武藤人気は爆発した。

 新日本プロレスは'80年代末、人気の低迷期にあったが、この武藤凱旋を機に一気に息を吹き返す。そして武藤、蝶野、橋本の闘魂三銃士を中心に、昭和の新日本とは違う、新しい新日本を作り、'90年代の黄金期を築いていった。武藤の凱旋帰国は、新日本自体を変え、プロレス界の流れを大きく変えたのだ。

【次ページ】 オカダの凱旋帰国自体は、実は失敗だった。

BACK 1 2 3 NEXT
中邑真輔
武藤敬司
WWE

プロレスの前後の記事

ページトップ