野ボール横丁BACK NUMBER
クラーク国際の監督は不死身で昭和。
3年前、9人で作った野球部が甲子園。
posted2016/08/05 07:30
text by
中村計Kei Nakamura
photograph by
NIKKAN SPORTS
南北海道のクラーク国際が、創部からわずか3年目で通信制として初めて甲子園出場を決めた。その校風とスピード出場にも驚いたが、それ以上に、同校の監督が佐々木啓司だったことに驚かされた。
佐々木は、「不死身」だったのだ――。
正直なところ、1人の時代が終焉したのだと思った。
2014年3月、北海道を代表する伝統校・駒大岩見沢が、50年の歴史に幕を下ろした。春夏通じて12回甲子園に出場し、'93年春には全国四強入りを果たす。力強い打撃から「ヒグマ打線」のニックネームが定着した。その生みの親が、'78年から監督を務め、閉校時は総監督を務めていた佐々木啓司だ。情熱の塊のような男である。
駒大岩見沢の閉校が公になった'11年秋、そのことを新聞報道で知ったという佐々木は怒りを噛み殺していた。
「大学本部の借金もすごいし、地域の少子化もある。なくなるには、いろんな理由があるみたいだね。そういう噂は以前からあったけど、(閉校の知らせを)新聞で見ないといけないのかよ、って。えらい迷惑だよ、私としては」
ノックのしすぎで、半月板はないし体はボロボロ。
駒大岩見沢は、まさに佐々木の人生そのものだった。
「ノックのし過ぎで両足の半月板はないし、ヒジは痛いし、指も痛い。ボロボロなんだよ。すべてを捧げてきたからね。でも、だから選手の親御さんも、安心して俺に預けてくれたわけだよ」
スカウティングでは、北海道中をかけずり回った。
「北海道、ぐるっと回ったら1000キロだから。もう何十周もしてるよ。函館まで行くのだって、岩見沢からだと往復で600キロ近くある。朝5に起きて、サロマ湖の方寄ってから、東の端っこ、根室まで行ったこともある。ゆうに6時間はかかったな。そんなことを毎年、やってたんだから。それがなくなった今は、こんなに楽なもんなんだなって。普通の先生方は、こんなに楽してたんだな。そら、学校もなくなるよ」