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クラーク国際の監督は不死身で昭和。
3年前、9人で作った野球部が甲子園。 

text by

中村計

中村計Kei Nakamura

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photograph byNIKKAN SPORTS

posted2016/08/05 07:30

クラーク国際の監督は不死身で昭和。3年前、9人で作った野球部が甲子園。<Number Web> photograph by NIKKAN SPORTS

このチームに歴史はない。しかしこの男の中には、高校野球に捧げた何十年が確かに活きている。

駒大岩見沢がなくなった時、すでに55歳だった。

 親分肌で裏表のない佐々木は、不平不満を胸の内の収めておくことができず、つい漏らしてしまう。'00年代半ばに兄弟校の駒大苫小牧が台頭してきたときも「駒大苫小牧の佐々木さんですって、しょっちゅう間違えられるよ。たまんないよ」とライバル心を隠さなかった。そこが佐々木の人間臭さであり、時代性でもあった。

 駒大岩見沢が全国で通用したのは'90年代前後だ。それからは甲子園に出場しても、一気に全国区となった駒大苫小牧の陰に隠れがちで、早々に敗退することが多かった。そんな状況に追い討ちをかけるように閉校が決まった。当時、佐々木はすでに55歳。再出発を期するには、酷な年齢に思えた。

 佐々木は怒りながらも、時折、直面している運命に呆然としていた。

「今はまだショックが大き過ぎてさ。力が入らないんだよ。でも、少しずつ気持ちを立て直してさ、しっかりしなきゃなって思う。また、どこかで何かできるかなぁ……。まあ、人間、最初は何もないんだから。そこに戻ったと思えばいいんじゃないの。マイナスじゃない。ゼロだから。そこだけは救われる」

佐々木の“怨念”がクラーク国際を甲子園に導いたのか。

 2014年春、佐々木はわずか9人でクラーク国際の野球部を立ち上げた。1年目の秋までは「野っ原」で練習をしていたという。まさに「ゼロ」からのスタートだった。

 佐々木の快挙を知ったとき、真っ先に、駒大岩見沢が閉校するときの悔しそうな表情を思い出した。佐々木の執念、いや、もっといえば怨念が、クラーク国際を甲子園出場に導いたのだと思った。

 高校球界の指導者も、急速に世界交代が進んでいる。30代から40代の指導者はバランス感覚に優れ、「イマドキ」の選手たちの扱い方もじつに巧みだ。

 佐々木は、そんな世代とは対極にある。上昇志向剥き出しで、昭和の臭いがぷんぷんする。そして、何より一度どん底を味わった。

 還暦を迎え、見事に這い上がってきた男の意地を見てみたい。

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佐々木啓司
クラーク記念国際高校

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