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46年前の幻の世界野球リーグ、
“グローバルリーグ”誕生秘話。
 

text by

小関順二

小関順二Junji Koseki

PROFILE

photograph byNIKKAN SPORTS

posted2015/02/25 10:30

46年前の幻の世界野球リーグ、“グローバルリーグ”誕生秘話。<Number Web> photograph by NIKKAN SPORTS

グローバルリーグから帰国し、飛行機のタラップから降りてくる「東京ドラゴンズ」の選手たち。プロ・アマ混合の日本の選手たちは、たしかに“世界”を垣間見た。

ベネズエラのカラカス球場に掲揚された日の丸。

 開幕ゲームが行なわれたのは、ベネズエラのカラカス球場。掲揚された日の丸を見て森は泣いた。一塁手も兼任し、3割7分で首位打者に輝くことになる関根勇も日の丸を見て「感動した、鳥肌が立った」と言う。楽しんでプレーするタイプの多い現代の選手とはメンタリティが異なるとしか言いようがない。

 辻正孝は修徳高時代の'66年夏、東京大会で3本のホームランを放つ活躍でチームを甲子園に導いている。その年のドラフト会議で中日から5位指名されたが、これを拒否していすゞ自動車に入社した。

 拒否と言っても、本人の意志とは関係なく最初から社会人入りのレールが敷かれていたらしい。もともとプロ志向が強かったので、「プロでやれると思ってわくわくした」と、グローバルリーグ入りを前にした心境を話してくれた。

 福井もアマチュアの身分でのグローバルリーグ参加者だ。実績らしい実績は'58年夏の選手権大会に甲賀高(現水口高)の一員として出場したぐらいで(初戦敗退)、卒業後は営業マンとして働くかたわらクラブチームで野球を楽しんでいた。チーム内で最も実績のない選手と言ってもいいが、「アメリカで野球ができると聞いて矢も楯もたまらず飛びついた」と当時の心境を語る。

開始時点から金銭トラブルが続発。

 グローバルリーグは苦難の連続だった。その原因は、ほとんど金銭絡みと言っていい。日本を出発する前に渡されるはずだった1人1カ月分の報酬700ドル(当時のレートで25万2000円。大卒の初任給が3万円強の時代)は最初から半額にされ、33人揃った選手は経済的理由で25人に減らすよう指示をされ、そして133日間で138試合を消化する日程はいつの間にか6チームによる総当たりで各100試合に縮小されている。そして結論から言えば、この縮小された日程さえ最後まで行なわれることはなかった。

 その都度ディルベックは雲隠れしたり、言い訳をしたり、その場を繕うだけで根本的な問題解決に着手しようとしない。はっきり言えば詐欺師的なのだが、福井は苦ではなかったという。

「だって外国の地を踏めて、野球をやれるんですよ。構想がすごいじゃないですか。“スポーツ大冒険”ですよ。世界を見てみたいと思いましたね」

【次ページ】 日本チームは好調な滑り出しを見せたが……。

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森徹

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