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「6番・阿部慎之助」も辞さず――。
原監督が“超実力主義”を貫く理由。 

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鷲田康

鷲田康Yasushi Washida

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photograph byHideki Sugiyama

posted2014/04/04 10:50

「6番・阿部慎之助」も辞さず――。原監督が“超実力主義”を貫く理由。<Number Web> photograph by Hideki Sugiyama

開幕から5試合を終えた時点で4勝1敗と順調なスタートを切った原巨人。なかでもチーム打率が4割をマークするなど、打線の好調さが際立っている。

「これでダメだったら、あとはフェンスの向こう側に行くだけだぞ!」

 1988年のオフ。王貞治監督(現ソフトバンク球団会長)の解任で2度目の巨人監督に就任した藤田元司監督(故人)が、チーム再建策として最初に行なったのが原辰徳三塁手の左翼コンバートだった。

 当時の原は'87、'88年と2年連続で3割、30本塁打をマーク。打者として円熟期を迎えていたが、その一方で'86年に左手の有鈎骨を骨折したことで打撃が一変。またその後の持病となったアキレス腱痛を発症するなど、肉体的にはボロボロの状態でもあった。

 そんな主砲の状況に藤田監督は、打力を生かす最後の手段として、守備の負担を軽減するためのコンバートを決断したわけである。

 そうして監督復帰発表直後に原を自宅に呼び、直接コンバートを通告。そのとき同時に伝えたのが、冒頭の言葉だった。

固い師弟の絆があればこその“最後通牒”。

 長嶋茂雄監督(現巨人軍終身名誉監督)が解任された直後の'80年のドラフトで、藤田は4球団競合の末に1位くじを引き当て、原の巨人入団を決めた。そこから公私にわたり、自らの手で原を一流のプロ選手へと育て上げ、原自身も藤田の薫陶を得ることで一流選手への道を歩んできたという思いもあった。

 文字通り二人の間には固い師弟の関係があった。

 その師から突きつけられた“最後通牒”ともいえる言葉に、原は黙って頷くしかなかったわけである。

 結果的に原は、この年から'91年まで3年間左翼を守り、最終的には「フェンスの外」ではなく、一塁へと再コンバートされて'95年まで現役でプレーすることになる。その間には打順は6番、7番も経験し、代打を送られることもあった。あれほどのスター選手でありながら、巨人史上で最も様々な逆境を経験した選手の一人となったわけである。

【次ページ】 苦境の経験が、現在の思い切った起用の背景に。

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