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追憶・破壊王が描いた風景。 

text by

丸井乙生

丸井乙生Itsuki Marui

PROFILE

photograph byTadahiko Shimazaki

posted2005/08/02 00:00

追憶・破壊王が描いた風景。<Number Web> photograph by Tadahiko Shimazaki

 まずは、写真を見て欲しい。これほどまでに心が自由な大人がいるだろうか。彼は当時37歳。石川県金沢市の「白鳥路ホテル」に宿泊した際、報道陣から写真撮影を求められ、白鳥の像をバックにいきなりポーズをとった瞬間である。カメラマンは誰も、そんな格好はリクエストしちゃいない。だいたい予想はついていると思うが、本人申告によると「白鳥の舞」だという。体重125キロで飛べるのか、それよりプロレスと何の関係があるのか。そして、そんなポーズが新聞に掲載されても悔いはないのか。この一枚に代表されるように、諸々の疑問を凌駕して驀進する存在、それが破壊王・橋本真也だった。

 新日本プロレス時代は最強を誇った。80年代の若手時代は闘魂三銃士として人気を博し、90年代に入ると、新日本プロレスの最強の証である「IWGPヘビー級王座」戴冠時には、当時の最長記録となる9度の防衛を果たした。記録より何より、ファンの心を揺さぶったのは喜怒哀楽むき出しの戦いぶりだった。目をむき、歯を食いしばり、気合いと共にケサ斬りチョップを振り下ろす。97年から始まった小川直也との死闘でも全身全霊を込めた姿は、敗れてもなお、ファンの支持を集めた。

 しかし、リングを降りるとハチャメチャだった。若手時代に大雨が降ると、新日本プロレスの合宿所近くにある東京・多摩川で投網を打って漁をしていた。捕らえたところで食べられるような代物ではないが、40歳近くなってからも、高級ベンツのトランクには投網とモリを常備していた。プロレス界の常識人・坂口征二の自宅を訪問した際は、出された食事だけでなく、冷蔵庫の中まで食べ尽くして辞した。坂口の付け人を務めるとあまりに忘れ物がひどく、橋本を見張る「付け人の付け人」を採用したという。

 00年に解雇されると、翌年に新団体「ZERO−ONE」を旗揚げした。プロ野球の名監督・野村克也氏によると「組織はリーダーの力量以上には伸びない」という。裏を返せば、リーダーの資質が組織に色濃く反映されるという事だ。ZERO−ONEには、橋本の自由奔放な心象風景が投影されていた。ユニークな外国人選手を多用し、日本VS外国という、子供にも分かりやすい図式をつくった。チェーンを振り回して暴れる巨大怪獣、卑怯な手段でレフェリーの目をかいくぐる策略男爵。昔、日本が熱狂したプロレスの原風景がそこにあった。

 団体の隆盛とともに、橋本の破天荒言動も加速度を増していく。同じ岐阜県の英雄・織田信長を尊敬し、座右の銘は「天下統一」だった。「ZERO−ONE」を旗揚げした際は「日本中をゼロワン中毒にしてやる」と豪語。熱狂的ファンを差す「ゼロチュー」なる造語を生み出した。日本全国での地上波放映を目指し、まずは北海道での放送が始まると「北海道は征服した。次はどんどん南下して最後は全国で中継されて天下統一や」。残念ながら、青森ですぐ止まってしまった。

 豪快で破天荒。それに優しさが加えられていた。札幌市のススキノで食事していた時、隣のビルが火災にあった。「まだ中に人がいる」と聞いた橋本は若手へ「靴!」と命令。練習でも見せたことのないスピードでビルの中へ走り込み、煙に巻かれそうになっていたおばあちゃんを背負って帰ってきた。名乗らずに店へ戻り、再び蟹を食べ始めたという。

 7月30日。プロレス界有志による合同葬が東京・港区の青山葬儀所で営まれた。40歳で逝ってしまった破壊王。橋本が考案したポーズ「トルネード・ハッスル」を参列者全員でやろう、と小川が提案したところ、飾ってあった写真が一斉に倒れた。風のせい、ではないだろう。最後の最後までみんなを驚かせ、「現代に生きる伝説のような人」は、ついに本当の伝説になってしまった。

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