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土井正博 「教えられなかった死球の避け方」 

text by

永谷脩

永谷脩Osamu Nagatani

PROFILE

photograph byShigeki Yamamoto

posted2009/01/16 00:00

18歳の若者は、ドラフト会議でひどく傷ついていた。その若者を根気強く見守り、そして逞しく育てあげたひとりの野球人がいた。
清原の心を救い、打の真髄へ導いた恩師・土井正博の記憶を辿った。

 プロとなって最初に出会い、自分を見守ってくれたコーチの存在は、どんな大選手になったのちでも決して忘れない。涙のドラフトから一転、西武に入団した清原和博の場合、その存在が土井正博だった。土井は、清原の入団と同時に当時の編成部長だった根本陸夫によって一軍打撃コーチを命じられていた。

 「清原に初めて会った時、こりゃ講道館の黒帯(本物の意)だわと。ものが違うと思いました。私も一軍コーチは初めてだし、どうしたものかと思って、根本さんに相談したらば『向こうから何か相談に来るまで、じっと見ていなさい』と言われて。我慢比べでしたね」

 清原の最初のオープン戦成績は2割2分。本塁打無しで終わっている。そこで開幕直前会議で、清原を二軍からスタートさせるか一軍残留のままでいくのか議論となった。結局次代を育てて欲しいというフロントの方針もあり、開幕一軍スタートということになる。

 「森(祇晶)監督はどうしても優勝したいというのがあった。37歳の片平(晋作=現二軍監督)もいて調子もよかったし。ただ根本さんから若手を育てるという話も来ていましたし、私も清原の体さえ大丈夫ならば、我慢して使ってくれればいいなと思ってました。ただ監督の立場とすれば、相手が右投手の時は片平で、左投手の時に清原という併用にしたい、と。清原にはドラフト時の騒動なんかもあって、どうも人間不信みたいなのがあったし、その日が自分の出番じゃないと分かると遊んでしまう。彼もこのままじゃ駄目だと思ったのでしょう。公式戦に入ってすぐの時だったですかね、本人の口から『徹底的にやりたい』と言ってきたんですよ。

 しめたと思って、それからとにかく二人でじっくり話し合いました。私は合宿所に泊って、朝早くから付き合うかたちで。まずは高校時代の夏のフォームに戻そうと、TV局に頼み込んでビデオをもらい、写真も集めて、今と昔の違いを説明した。すると、昔はあった体の前の壁が崩れている、と気づくわけですよ。体が開かないように打ち込みをしていくと、自然に仕上がっていった。

 あと精神面で彼に話したこととしては……私が18歳で4番を打たされた時、当時の監督だった別当さんに何度も泣きを入れた話ですね。その時、別当監督が言ったセリフは一生忘れません。『打てないお前も苦しいが、使う俺の方がもっと苦しい』って。『ここでお前を外したら、一生出てこれん。それならば死にもの狂いでやってみい』と言われて。清原にはそういう話をしましたね」

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