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「彼はジェントルマン。“今日はウイスキーでも飲もうぜ”と2人で飲んで…」松木安太郎が語るヴェルディ川崎の連覇を生んだ“ネルシーニョ・マジック”の原点《インタビュー》
1993年5月15日。日本サッカーの聖地と呼ばれた旧国立競技場で、Jリーグの歴史は幕を開けた。
ヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)には三浦知良、ラモス瑠偉、武田修宏、北澤豪、柱谷哲二、都並敏史ら日本代表メンバーがずらりと顔を揃えていた。そのスター軍団を率いて'93年、'94年と連覇を果たしたのが松木安太郎だった。そんな彼を名参謀たちが支えた。なかでも'94年のシーズン中にヘッドコーチとして加わったネルシーニョは大きなインパクトを残した。
松木の7歳年上の彼はヘッドコーチ就任前に名門パルメイラスやコリンチャンスなど10クラブ以上で指揮を執った実力派だ。
「意見が食い違ったこと? それはなかったね。基本的にはネルシーニョの意見を尊重していたし、やっぱりコーチ陣がギクシャクすると選手たちはすぐに気づくし、混乱してしまう。そういうチームはうまくいかないですから」
Jリーグが開幕した'93年、松木は35歳の若さで監督に抜擢される。突然、勝利が義務づけられた常勝軍団を率いることになり、プレッシャーを感じないわけはなかった。
「結果によってはコーチとしての寿命を縮めることにもなりかねないわけですから、覚悟するまでは葛藤がありました。周りもやめたほうがいいという声ばかり。もしも今、当時と同じような状況でオファーされたら絶対に断るでしょうね。あれは、若いからこそできたチャレンジでした」

ヘッドコーチには読売クラブ時代に監督を務めたオランダ人のフランツ・ファン・バルコムを指名し、助っ人としてヘニー・マイヤーとイェーネ・ハンセンが加入した。当時のサッカーは個人技を活かしたブラジル型と、組織を重視する欧州型の大きく2つに分かれていたが、松木はそれらを融合した「日本型」を目指していた。
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