中島啓之という男がいた。職業は騎手。馬が好きで、競馬が好きで、負けず嫌いで、なによりも友と酒を愛した。
「中島さんを悪く言う人はいない」
中島を知る人は皆、おなじことばを口にする。中島のまわりには人が集まり、仲間は「あんちゃん」と呼んでいた。
中島は「史上初の父子二代のダービージョッキー」というフレーズで語られてきた。父の中島時一は戦前の調教師兼騎手で、1937年に第6回日本ダービーを牝馬のヒサトモで勝っている。
戦時中の'43年6月に東京・府中でうまれた中島は、疎開先の広島で育っている。戦後、時一は競馬をやめ、広島で農業をしていた。家には農耕馬がいて、村の草競馬にも乗っていた啓之少年が騎手の道を選んだのは自然のなりゆきだった。
重馬場でたびたび穴をあけた「雨のラファール」
'61年、中島は東京競馬場の奥平作太郎に入門する。東京の厩舎エリアは、尾形藤吉厩舎などの大厩舎が居並ぶ内厩と、小さな厩舎がはいる外厩があった。奥平作太郎はおなじ外厩の高木良三と仲がよく、高木厩舎には4歳年下の小島太がいた。中島は小島が見習い騎手のときからかわいがり、小島も中島を慕っていた。
ふたりとも酒が好きで、小島は中島をはじめ吉永正人、大崎昭一ら東京競馬場の先輩騎手とつるんで飲みにいった。いちばん年下でも生意気さでは負けない小島は、いつの間にかタメ口になり、先輩たちと対等に付き合うようになっていた。
'69年に奥平作太郎が亡くなり、中島は、2年後に開業した息子の奥平真治厩舎に移る。そのころの騎乗馬には、重馬場でたびたび穴をあけて「雨のラファール」といわれたラファールや、10番人気で有馬記念を逃げきったストロングエイトがいて、関東の競馬ファンは中島を「万馬券男」と呼んでいた。しかし、小島は「中島さんは、穴ジョッキーではない」と言う。
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