ワールドカップ(W杯)が日本サッカーにとってはるかかなたにあった頃、その関門であるアジア最終予選もどこか遠い世界の出来事に感じられた。子供の頃の記憶をたどっても、1976年モントリオール五輪と'78年W杯アルゼンチン大会のアジア予選を比べたら、五輪予選の方が重大事として扱われていたように覚えている。
'82年W杯スペイン大会のアジア予選を監督として戦った川淵三郎(後のJリーグ初代チェアマンであり、日本サッカー協会会長)はそれで当時、大胆な若返りを断行できた。'80年の年の瀬、香港で開催された予選に連れて行ったのは金田喜稔、山本昌邦、木村和司、風間八宏、都並敏史、原博実ら20歳前後の若者ばかり。最年長は26歳の前田秀樹で、24歳の岡田武史でも年かさの部類だった。川淵は後にこの編成を、「W杯予選はあくまで、その後の('84年)ロサンゼルス五輪予選の助走という気持ちだった」と振り返っている。
W杯予選の重みが増したのは'86年W杯メキシコ大会からだろう。ロス五輪予選敗退の挫折から這い上がったチームは、森孝慈監督と加藤久主将を中心に「ファミリー」と称されるほどの結束力を誇り、アジア予選をしぶとく勝ち進む。そして'85年秋の韓国との最終決戦、ホーム&アウェー二本勝負にまで持ち込んだのである。
'85年10月26日の第1戦、東京・国立競技場で木村和司が決めた直接FKは今も語り草だ。ただ、残念ながら試合は日本の連敗に終わった。出場権を得た韓国は翌年の本大会で、優勝するアルゼンチンとディエゴ・マラドーナに対峙する名誉に浴するのだが、日本もこの敗北を'90年代の輝ける跳躍の礎に変えることができた。
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