甲子園の風BACK NUMBER
部内暴力が“普通だった”時代…池田高校は“部活の常識”をどう変えた? 上下関係ゆるい、スポーツドリンク導入「社会へのカウンター」さわやかイレブンの真実
text by

谷川良介Ryosuke Tanikawa
photograph bySankei Shimbun
posted2026/09/11 17:35
1974年にわずか11人でセンバツ準優勝を成し遂げたチームは「さわやかイレブン」の愛称で親しまれた
――著書でも、中村さんは部内暴力の問題は構造的な要因から起こると指摘されていました。強豪校であること、部員数が多い大所帯であること、そして寮生活であること、という3つを挙げられているかと思います。
中村 その通りです。強くなるという大目標のもと、チーム規律や和を乱す行為への制裁や体罰は、閉鎖的な空間の中で起きやすくなります。そういう意味で、11人の池田は、強豪校が抱えがちな条件とは対極にあった存在だったような気がします。そもそも、1970年代の池田の野球部は、そこまで勝つことを求められていたわけではないと思うんです。野球が好きで来てくれた生徒を集めて、いわゆる地方の公立高校のそれまでの取り組みの延長線上に甲子園があった。しかも、「さわやかイレブン」がそうした型にはまらなくても全国で勝てるということを自ら証明しました。
スパルタ指導も自由な野球も経験した過去
――チームづくりには、蔦さんが歩んだキャリアが影響しているのでしょうか。
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田中 ひとつ中村さんにお伺いしたかったのが、蔦さんが学生だった頃の大学野球です。蔦さんがいた時代、同志社大学は学生が監督を兼任していて、蔦さんが徳島商業で見た野球とは違ったのではないかと。
中村 東京六大学は先行して日本で最もレベルの高い環境にあったので、かなりスパルタだったという資料が残っています。1920年代後半には、全チームに監督がいるのが当たり前になっていましたが、全国的にそうだったかというとそうではありません。関西では関西大学は早かったと思いますが、それ以外はそこまでではなかったはずです。同志社がどうだったかは正確には分かりませんが、自由に野球ができていたと推測します。
私からも一つ伺いたいのですが、蔦さんが卒業後に徳島商業は「幻の甲子園」で優勝していると思うのですが、そのあたりの証言は何かありましたか? 監督の稲原幸雄さんは日付が変わるほどの猛練習を生徒に課していました。
田中 幻の甲子園のとき、試合後に稲原さんと抱擁したというエピソードが記載された本はあるのですが、同大会に蔦さんは深く関わっていなかったと見ています。少なくとも元部員や関係者の証言からは出てきませんでした。
中村 蔦さんご自身が高校時代をあまり多く語ってこなかったのは、なぜだと思われますか。
