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甲子園連覇“あの名将”蔦文也に新証言「大学時代の父はシルクのセーターを着て…」裕福な名家の一人息子が、池田高校を率いるまでの“知られざる青春” 

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田中仰

田中仰Aogu Tanaka

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posted2026/07/28 11:01

甲子園連覇“あの名将”蔦文也に新証言「大学時代の父はシルクのセーターを着て…」裕福な名家の一人息子が、池田高校を率いるまでの“知られざる青春”<Number Web> photograph by KYODO

池田高校を率い、3度の甲子園優勝を果たした蔦文也監督

 蔦は7歳で徳島師範男子附属小学校に入学する。野球をはじめたのは小学5年、蔦11歳のときだった。

《5年生のときにセカンドで野球を始めて、6年生でピッチャーになって、そのときも徳島県下で大会があって、その大会で私ピッチャーで優勝したんですけれどね》(『強うなるんじゃ!』蔦文也・山際淳司)

 師範学校といえば当時のエリートコースである。 旧制高等学校の徳島中(現・城南高校)へ進み、進学率が10%に満たない時代にあって大学へ行き、卒業後は教育者になる。そのような進路を歩む同級生が多いなかで、蔦は野球の強豪校であった徳島商業に進学する。徳島中への入学を望む父・新吉の反対を押し切っての決断であった。 徳島商業への入学直後、蔦は野球部に入部しなかった。その理由について蔦は、徳島商の教諭で酒飲みであった新吉の子という目で上級生から見られるのが嫌だった点を挙げている。

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 しかし結局、入学翌年に入部し、最終的に甲子園へ3度出場した。

同志社大に入学…依然として裕福だった

 蔦は第1志望の慶應義塾大の受験に失敗し、滑り止めで受けた同志社大に入学する。慶應に不合格だった理由を自身は、商業高校の数学は簿記が中心のため、《数学がダメで入れんかった》(前掲『強うなるんじゃ!』)と述懐している。

 名家の一人息子として、5代目の蔦は大切に育てられた。

「大学時代の父はシルクのセーターを着ておったというからね」

 隆司によると、蔦家は依然として裕福だった。戦争が本格化するまでは。〈つづく〉

記事公開から1年に及ぶ継続取材を経て完全書き下ろしで書籍化。“高校野球界最大の謎”を追ったミステリーノンフィクション『監督、神になる 池田高校 記憶の衝突』(著:田中仰)が7月29日についに発売記事公開から1年に及ぶ継続取材を経て完全書き下ろしで書籍化。“高校野球界最大の謎”を追ったミステリーノンフィクション『監督、神になる 池田高校 記憶の衝突』(著:田中仰)が7月29日についに発売
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「戦争ですべてを失ったんです」甲子園“No.1名将”の息子がポツリ…学徒出陣→特攻隊員に、名家に生まれた池田高校・蔦文也の“知られざる激動人生”

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