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甲子園の風BACK NUMBER
甲子園連覇“あの名将”蔦文也に新証言「大学時代の父はシルクのセーターを着て…」裕福な名家の一人息子が、池田高校を率いるまでの“知られざる青春”
posted2026/07/28 11:01
池田高校を率い、3度の甲子園優勝を果たした蔦文也監督
text by

田中仰Aogu Tanaka
photograph by
KYODO
名門・池田高校はなぜ甲子園から“消えた”のか? 蔦文也は本当に名監督だったのか、それとも――? “高校野球界最大の謎”を追ったミステリーノンフィクション『監督、神になる 池田高校 記憶の衝突』(著:田中仰)が7月29日についに発売!
今回はその中から、「名家の一人息子」「戦争ですべてを失った」など、蔦監督の知られざる秘話を、次男が明かした場面を紹介する。【全2回の2回目/前編も公開中】※肩書などはすべて取材時のもの
今回はその中から、「名家の一人息子」「戦争ですべてを失った」など、蔦監督の知られざる秘話を、次男が明かした場面を紹介する。【全2回の2回目/前編も公開中】※肩書などはすべて取材時のもの
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明治31年(1898)、税収入を目的に国が原料の葉タバコを買い上げるようになると、6年後の明治37年(1904)、それまで民営だったタバコ産業が、専売に代わった。葉タバコの製造から販売までを政府が管理するようになったのだ。
蔦家は3代目、友太郎の時代である。それでも当時はまだ、商家には政府から補償金や買上げ代金が支払われていた。蔦家の収入源は依然としてタバコであった。
「小餘綾さんを最初に指名した」
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「つづく4代目が蔦文也さんの父母にあたりますね」
「そうです。私の祖父とお婆さんですね。新吉と玉枝はそれぞれ入り婿、入り嫁です。だから蔦家本家としては、3代目で途絶えています。でも『家』を残すというのは大切だから、池田町内の血縁の者が養子として入った。分家から相当に反発はあったみたいですがね」
新吉夫婦は、池田を離れ徳島市へ引っ越した。新吉が高校教諭になったためだ。
「婆さんは、暇な時に大阪へ行って、浄瑠璃を見ていたようですね。タバコ関係の知り合いか分家が大阪に住んでいたから、そこへ泊まらしてもらってね。爺さんもずいぶん飲み歩いていたようですよ。芸姑の小餘綾さん本人から聞いた話ですが、あの方をいちばん最初に指名したのが爺さんだった。夫婦2人してそれだけお金を使っていたけれど、まだ余っていた。そんな時代やね」
芸姑、多田小餘綾とは阿波踊りのおはやし「よしこの」を唄う第一人者で、のちに徳島県民栄誉賞を受賞した人物である。

