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甲子園の風BACK NUMBER
甲子園連覇“あの名将”蔦文也に新証言「大学時代の父はシルクのセーターを着て…」裕福な名家の一人息子が、池田高校を率いるまでの“知られざる青春”
text by

田中仰Aogu Tanaka
photograph byKYODO
posted2026/07/28 11:01
池田高校を率い、3度の甲子園優勝を果たした蔦文也監督
蔦のお通夜に“首相夫人”が参列した理由
教諭であった新吉は徳島商業に赴任していた時期がある。
「そのときに三木さんと面識があったみたいだね」隆司が言及しているのは、のちに総理大臣となる三木武夫と新吉の関係だ。池田が甲子園で2度目の準優勝を果たした直後の1979年9月、『サンデー毎日』が2人の間柄にさらりと触れていた。
《徳商時代の教え子に三木武夫(元首相)がいる》(1979年9月1日号)
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三木が祖父の教え子であったかどうかは定かではないが、「(三木が)転校した時に何かがあったようです」と、隆司は言った。
蔦のお通夜の日、三木にとって新吉さんは恩人だった、と睦子は隆司に話した。三木は、校長の追放運動を起こした責任から、1925年に徳島商から退学処分を受けた。この騒動のときに新吉が三木になんらかの手助けをしたものと思われる。
当初、蔦文也はなぜ野球部に入らなかった?
1923年8月28日。蔦文也が生まれたのも、新吉が徳島商の教諭時代であった。
文也は5人兄妹の長男で、下に4人の妹がいる。蔦家は当時、現在の徳島大学がある徳島市常三島町で生活していた。
蔦誕生の1年前、本家がある池田町に池田中学が創立された。蔦がのちに生涯を尽くすことになる、池田高校の前身である。
そして蔦誕生の3年後、大正天皇が崩御した。蔦がそのすべてを生きることになる、昭和時代がはじまった。
