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ヤンチャだったオーソクレース(牡3)がマリアライトから受け継いだ“勝負強さ”〈セントライト記念→GI戦線〉へのカギは「お母さんみたいな成長力」
text by
平松さとしSatoshi Hiramatsu
photograph bySankei Shinbun
posted2021/09/17 17:03
札幌競馬場での新馬戦を完勝したオーソクレース。鞍上はクリストフ・ルメール
小学5年から乗馬を始めると、さすが蛙の子は蛙、センス抜群だった。
「すぐに大会で優勝しました。ただ、中学生になると体重が増えてしまったのでジョッキーは諦めました」
それでも乗馬は続けた。すると、明治大学では1年生でいきなりレギュラー。全日本選手権にも4年連続で出場すると、1年の時こそ決勝で敗れたが、その後は3連覇を達成。在学中に優勝した大会は30を超え、この世界では知らない人のいない存在となった。
「当然のように目標はソウルオリンピックでした。ただそんな時、父に『メダルを獲ってもそれで食べていくのは大変だぞ』と言われました」
加えて「10年後も考えろ」と言われた事で、思考が一転した。
「大好きな馬で食べて行くのなら競馬の世界だと思うようになりました。同時に、競馬の世界に入るなら少しでも早い方が良いだろうと考えました」
キタサンブラック、ドゥラメンテを打ち負かした
オリンピックはきっぱりと諦め、大学卒業と同時に競馬の聖地でもあるイギリス・ニューマーケットへ飛んだ。
「名門のクライブ・ブリテン厩舎で働かせてもらいました」
その際、イギリスが誇る伯楽でもあるブリテン調教師(引退)に、教えられた言葉があった。
「『自分の感情を馬にぶつけないようにして、いつも同じ気持ちで接するようにしなさい』と言われました」
91年には同調教師が管理するテリモンがジャパンC(GI)に出走。その際、帯同する厩舎スタッフとして指名してもらった。
結果はアメリカのゴールデンフェザントが優勝し、日本のメジロマックイーンもテリモンも敗れてしまった。しかし、当時の久保田青年には大きなターニングポイントとなる経験となった。
「東京競馬場のパドックでテリモンを曳いて歩いた時の気持ちはいつまで経っても忘れられません。いつか自分が調教師となって管理する馬をこの舞台へ立たせたいと強く思いました」
帰国すると、92年に競馬学校に入学。同年の暮れからは美浦で厩務員となり、93年には調教助手に。そして2002年には念願の調教師試験に合格。翌03年に開業すると、先述のマリアライトで15年のエリザベス女王杯を制しGI初制覇。更に438キロまで成長した翌年の宝塚記念(GI)では、牡馬のGI馬であるドゥラメンテやキタサンブラック、ラブリーデイらを向こうに回し鮮やかに優勝。2つ目のGI制覇を飾ってみせた。