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遠藤保仁、J1通算600試合達成へ。
親友たちだけが知るヤットの凄さ。
text by
下薗昌記Masaki Shimozono
photograph byJ.LEAGUE
posted2018/11/09 08:00
遠藤保仁、デビュー戦の横浜ダービー。中村俊輔とボールを競り合う場面も。
山口智、西野朗の見解は?
まずは、2001年に遠藤とともにガンバ大阪に移籍し、ともに黄金時代を築いてきた山口智氏(現ガンバ大阪コーチ)の言葉である。
「今更、ヤットの凄さをいちいち、説明する必要がありますか。皆さんが見た通りの凄い選手でしょ」と破顔した山口氏だが「シドニー五輪のメディカルチェックか何かで、初めて出会った瞬間から波長が合った」と明かす遠藤の一面についてこう言い切った。
「マイペースとか何だかんだ言われてますけど、ああ見えて、負けん気が凄いし、新戦力が入ってきてもポジションを譲らないって気持ちも強い。それはチームメイトとして近くで見ていて感じたことだった」
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西野朗元監督が率いた全盛期のガンバ大阪では、戦況を見通す眼を生かしながら中盤を支配。「常に2手、3手先を読んでいる。ヤットの思考回路は他の選手と違う」と、指揮官もその華麗なプレースタイルを絶賛していた。だが当時から、その熱さもピッチ内で見え隠れしていたのだ。
ACLなどで味方がラフプレーを受けた際には、必ずと言っていいほど、激しいチャージで相手に“報復”。そして日本代表との並行日程で、疲労困憊の状態でも「どれだけ疲れていても、気持ちがあれば体は動く」と鹿児島実業高校サッカー部で、メンタル面も鍛え上げられた男ならではの言葉も口にした。
実は根っからの体育会系。
現在、ガンバ大阪でスカウトを担当する中澤聡太氏は市立船橋高校サッカー部上がりだが、かつてこんな話を聞かせてくれたことがある。
「ヤットさんは根っからの体育会系。高校時代のキツかった練習の話とかにはガッツリ、食いついてくる」
遠藤自身、600試合にたどり着けた要因として「怪我での離脱がほとんどなかった。それが大きいのかな」と振り返った。2006年と2008年にそれぞれウイルス性肝炎で1カ月以上の戦線離脱を強いられたことはあったが、負傷で長くピッチを離れたことは一度もなかった。