サムライブルーの原材料BACK NUMBER
アジアカップはいつも総力戦だった。
2004、2011の優勝をもたらしたもの。
text by
二宮寿朗Toshio Ninomiya
photograph byAFLO
posted2015/01/10 10:40
2004年のアジアカップで、優勝カップを手に喜びをかみ締める宮本恒靖。後ろには松田直樹をはじめ、当時のメンバーたちの姿が見える。
中村俊輔「先輩たちが支えてくれた」
松田の出番は準々決勝ヨルダン戦の終盤8分間のみ。だがベンチにいる彼は不満を抑え、ピッチに立つ選手のために裏方に回った。声を出し、盛り上げ役にもなった。
大会MVPに輝いた中村俊輔はこう言った。
「控えにいたマツさんとかキャリアを積んできた人たちがタオルや水を持ってきてくれたり、ベンチから盛り上げたりしてくれた。そういった先輩たちがチームを支えてくれていた」
中村の言葉には、彼らへの感謝がこめられていた。
人一倍プライドの高い松田にとって、我慢の時間だったことに変わりはない。胸にかけた優勝のメダルを、彼はスタッフに「悪いけど、もらってくれ」とそっと頼み込んでいる。ピッチで優勝に貢献できなかったことの辛さは、言葉には表せないものであったと思う。
2011年も、「控え選手」がカギを握った。
中国大会以来の優勝となったのが2011年1月に開催された前回のカタール大会である。
このときも「控え選手」の存在がカギを握った。ジーコジャパンは先発メンバーが固定されたが、ザックジャパンはケガ人が相次いだこともあってメンバー23人中21人が出場する総力戦となっている。
オーストラリアとの決勝戦、延長後半に値千金の決勝ゴールを挙げたのが途中出場の李忠成だった。鮮やかなボレーシュートが日本に優勝をもたらした。
李はグループリーグ初戦のヨルダン戦で途中出場して以来、出番がなかった。それでもいつか必ずチャンスが来ることを、彼は強く信じていた。
出場機会が限られながらもモチベーションを高く保っていた、李をはじめとする控え組の選手たち。これにはアルベルト・ザッケローニのチームマネジメントも深く関係していた。
練習では全員に注意深く目を配っていた。先発メンバーだけに意識を向けていないことは、選手たちにも伝わっていた。