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梨田昌孝は2年目に必ず飛躍する。
~2人の名将に学んだ監督術~
text by
田端到Itaru Tabata
photograph byNaoya Sanuki
posted2009/09/02 12:00
プロ野球の監督という職業は、医者に似ているように思う。
就任早々、大胆なメスを振るって手術を行い、一気にチームを作り変える監督もいれば、ひとまずは急ぎの手術を行わず、様子を見ながら漢方薬でも飲ませて、じっくりと治療の計画を立てる監督もいる。
ただ、大胆な手術による改革は、効果が早く表れやすい反面、副作用をともなう。
昨年、就任1年目で西武ライオンズを日本一に導いた渡辺久信監督は、2年目の今季、4位に低迷している。'06年、ヤクルト・スワローズのプレイング・マネージャーに就任して数々の改革を断行した古田敦也監督も、1年目は3位と健闘しながら、2年目は最下位に転落した。
一方、それとは反対に、1年目よりも2年目に大きな結果を残す監督がいる。たとえば、こんなふうに。
<梨田昌孝監督の就任1年目と2年目の成績>
・ 2000年近鉄6位 → 2001年1位
・ 2008年日本ハム3位 → 2009年1位(現在)
近鉄でも、現在の日本ハムでも、梨田監督は2年目に成績を飛躍させている。'01年の近鉄では「いてまえ打線」を作り上げ、圧倒的な破壊力を誇る打撃のチームで優勝。そして今年はチーム打率1位、犠打1位、防御率1位、盗塁3位。つなぎと、足と、投手力のチームだ。
1年目はチームの状況や選手の能力把握を優先し、2年目にチームを作り変えて結果を残す。これがナシダ流である。
梨田監督に影響を与えたふたりの名将。
梨田監督に多大な影響を与えたと思われる名将がふたりいる。西本幸雄と仰木彬だ。
仰木彬は、近鉄とオリックスの2球団でリーグ優勝を果たし、あの伝説の1988年「10.19」ダブルヘッダー第1試合では、現役引退が決まっていた梨田昌孝を、9回ツーアウトから代打に起用して決勝タイムリーを打たせた。
<仰木彬監督の就任1年目と2年目の成績>
・ 1988年近鉄2位 → 1989年1位
・ 1994年オリックス2位 → 1995年1位
仰木監督も近鉄とオリックスの両球団で、やはり2年目にチームを優勝に導いている。
仰木監督と言えば、打順をめまぐるしく替える「猫の目打線」が仰木マジックと呼ばれたが、あれはもともと1年目に各選手の適性を見抜くためのテストとして、打順を入れ替えていただけとも聞く。1年目はテストおよび情報集めのシーズンと割り切り、2年目に勝負を懸ける。それが仰木監督の戦略だった。
西本幸雄は、大毎、阪急、近鉄の3球団を計8度の優勝に導いた大監督で、近鉄の監督に就任した'74年、当時プロ3年目の梨田をレギュラーに抜擢した人物でもある。梨田昌孝の著書「戦術眼」には「野球の見方を教えてくれた恩師」とある。
その西本監督もまた、2年目に結果を残している。
<西本幸雄監督の就任1年目と2年目の成績>
・ 1960年大毎1位 → なし
・ 1963年阪急6位 → 1964年2位
・ 1974年近鉄5位 → 1975年2位(後期優勝)
阪急の監督1年目は、球団史上初の最下位。しかし2年目は2位に躍進し、その後、阪急の黄金時代を築き上げた。
近鉄でも1年目は5位に低迷したが、その年のオフに大型トレードを断行してチームを作り変え、2年目に後期優勝。プレーオフで阪急に敗れたものの、シーズン勝率は断然の1位だった。大毎では、1年目に優勝しながら日本シリーズ敗退の責任を問われて辞任したため、2年目はない。