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色あせた“オシムの言葉” 

text by

海老沢泰久

海老沢泰久Yasuhisa Ebisawa

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photograph byTakuya Sugiyama

posted2007/08/21 00:00

色あせた“オシムの言葉”<Number Web> photograph by Takuya Sugiyama

 イビチャ・オシムが日本代表の監督になったとき、『オシムの言葉』という本がベストセラーになった。きっと示唆に富んだすばらしい言葉が並んでいたからだろうと思うが、最近の“オシムの言葉”にはいささかうんざりしている。

 「トルシエやジーコのときのサッカーと、ビデオでよく見比べてもらえば分かると思うが、当時より日本はよいサッカーをしていると思う。みなさんにそう思ってもらわなくてもかまいませんが」

 これは、7月のアジアカップの3位決定戦で韓国にPK負けを喫したあとの記者会見での言葉だ。

 しかし、誰もが知ってのとおり、その結果は散々だった。

 グループリーグは何とか勝ち上がったが、準々決勝では10人のオーストラリアに勝つことができずに1対1の引き分け(PK勝ち)、準決勝ではサウジアラビアに2対3で負け、3位決定戦でも10人の韓国に0対0でPK負けしたのである。そんなにいいサッカーをしたのなら、このうちのひとつぐらいは90分で勝っていなくてはなるまい。ぼくは、ヘボでもトルシエとジーコがなつかしい。

 負けたサウジアラビア戦後には今後の課題についてつぎのようにいった。

 「アイデアのある選手が、よりスピードのあるプレーができて、走ることができて、全面的なプレーができる。全面的とはさまざまな役割ができるという意味だ。いまの中心選手には、自分にはできない苦手な部分がある。名前は挙げないが、よく試合を見ている方なら分かるはずだ」

 しかし、そういう選手を選んだのは監督自身なのである。

 3位決定戦の前には、

 「これまで出た選手は疲れている。フレッシュな選手と入れ替えることを考えている」

 といいながら、つぎのように語った。

 「わたしはジレンマに立たされている。選手の誰もが、疲れていても『できる』という。その気持ちは否定できないが、じっさいに出ると、動けない、力が出ないということもありうる。そうなった場合は、その選手を使った監督に責任がある」

 ぼくは、監督たる者はそもそもこういうことを口にすべきではないと思うが、いったいこの言葉をどういうふうに理解すればよかったのだろう。

 フタをあけてみれば、巻を山岸に替えただけで、あとはみんな疲れた選手をそのまま使ったのである。

 「一般的に負けた場合はチームをいじる。だが、わたしは反対のやり方にトライした。レギュラーにもう一度チャンスを与えたのだ」

 そうだ。

 交代の3人(羽生、佐藤寿、矢野)まで、負けたサウジアラビア戦と同じだった。

 ジーコはレギュラーばかり使い、交代策が下手で戦術的に無能だとずいぶん批判されたように記憶しているが、オシムは違うのだろうか。

 そして、最後の言葉、これも3位決定戦を前にして語った言葉だ。

 「ベスト4にはいったのだから、いいのではないか。これがワールドカップ予選なら、本大会の出場権を獲得したことになる」

 きっと無知な日本人を啓蒙してくれているのだろうが、すくなくともぼくはもうたくさんだ。

#イビチャ・オシム

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