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PK2度失敗でも「浦和サポは静かだった。ブラジルなら罵声だ(笑)」ワシントンが語る“点取り屋の度胸論”「フクダ、カズは逃げなかった」 

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沢田啓明

沢田啓明Hiroaki Sawada

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photograph byTomoki Momozono

posted2024/01/22 11:01

PK2度失敗でも「浦和サポは静かだった。ブラジルなら罵声だ(笑)」ワシントンが語る“点取り屋の度胸論”「フクダ、カズは逃げなかった」<Number Web> photograph by Tomoki Momozono

2006年、浦和レッズ時代のワシントン

 2002年に発覚した重大な心臓疾患を3度の手術と長期間の治療、リハビリを経て見事に克服。2004年、1年2カ月ぶりにピッチに立つと、ブラジルリーグで歴代最多得点記録を更新する34点を叩き込み、奇跡的なカムバックを遂げた。

 以来、母国ブラジルで彼は「コラソン・ヴァレンチ」と呼ばれるようになった。「雄々しい心臓」という意味だが、これは1995年に公開されたメル・ギブソン主演、監督のハリウッド映画「ブレイブハート」のブラジルでのタイトルでもある。

 彼の驚嘆すべき勇気、闘志、忍耐、献身を称えるニックネームであり、本人もこの呼び名を気に入り、右上腕の内側に彫っている。ゴールをあげて右手で心臓を叩くと、この文字が浮かび上がった。

憧れはジーコ、週末の試合が練習代わり

 そんなワシントンは首都ブラジリアで生まれた。父親は外務省の職員で、母親は教師。二人きょうだいの末っ子だった。

 6歳頃からストリートでボールを蹴り始め、たちまちフットボールの虜になった。憧れの選手は、当時、フラメンゴで活躍していたジーコだった。11歳のときに「テレモット」という名の地元のアマチュアチームでプレーを始めた。

「監督から『どのポジションでプレーしたいんだ』と聞かれ、『アタカンチ(アタッカー)です』と答えた。すると、右ウイングとしてプレーするように言われたんだけど、サイドでパスを受けると内側へ切れ込んでゴールを決めた。それを見たコーチから『君はセントロ・アヴァンチ(CF)だな』と言われ、以来、常にCFとしてプレーしている」と、ワシントンは回想する。

 1989年、13歳のとき、地元の小プロクラブ、ブラジリアFCのU-15のテストを受けて合格した。

「練習は週2回で、やったのはランニングと簡単な基礎練習だけ。週末の試合が練習代わりだった」

15歳にして遠く離れた地のクラブから誘いが

 1991年、15歳のときに大きな転機が訪れる。ブラジリアFCの監督がブラジル南部の中堅クラブ、カシアスのアカデミーのコーチにスカウトされて「一緒に行かないか」と誘われたのだ。

 その言葉を聞いて、ワシントンに迷いはなかった。

【次ページ】 20~21歳にかけて、大きな試練に見舞われた

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