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「酒、タバコが習慣化した選手も」ジーコ37歳がボウ然「アマレベル」の鹿島アントラーズが強くなるまで…ブラジルで本人に聞く 

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沢田啓明

沢田啓明Hiroaki Sawada

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photograph byHayato Fujii

posted2023/09/23 17:00

「酒、タバコが習慣化した選手も」ジーコ37歳がボウ然「アマレベル」の鹿島アントラーズが強くなるまで…ブラジルで本人に聞く<Number Web> photograph by Hayato Fujii

ブラジルのリオ南部の「CFZ(ジーコ・フットボール・センター)」にてジーコが大いに語ってくれた

「アントラーズとの交渉をしてくれたタカサキ(注:アントニオ・ルイス高崎。サンパウロ出身の日系ブラジル人で、スポーツや音楽の分野のプロモーターをしていた)から詳しい説明を受けた」

――日本へ到着後、当時の住友金属を取り巻く環境をどう感じましたか?

「ブラジルのアマチュアクラブと同じような練習環境。酒、タバコを嗜む選手がいた。チームが選手に提供していた食事はご飯、味噌汁、焼き魚といった“老人食”。アスリートが食べるべきものではなかった。練習施設、生活面の改善など、基本的な事柄からアドバイスをしていった」

近い将来、このチームは必ず強くなると

――日本人選手の資質をどう思いましたか?

「ボールを止める、蹴るという基本技術、正しいポジショニング、いつ攻撃しいつ守備をするべきかの判断といったフットボールの基本中の基本が不十分な選手もいた。しかし、彼らは皆、真剣に練習に取り組んでおり、向上心が旺盛だった。

 住友金属は私が伝えた提案を次々に実現してくれたから、施設と練習環境がどんどん改善されていった。このような状況を見て、『近い将来、このチームは必ず強くなる』と思った」

――あなたの左膝の状態は?

「チーム練習に参加し、試合にも出場して来日から3カ月が経過しても、全く痛みを感じなかった。ブラジルで引退する以前とほぼ同じ状態に戻り、『まだまだプレーできる』と思った。私はフットボールが大好きだし、自らのプレーでチームに貢献できることが本当に嬉しかった」

――1991−92シーズン、JSL2部であなたは21得点を記録して得点王に輝き、チームの準優勝に貢献。1992年後半、翌年に始まるJリーグの前哨戦として行なわれたJリーグカップでも6得点をあげ、チームはベスト4に食い込みます。

「コンディションが良好で、自分でも良いプレーができたと思う」

ミヤモトさんを人間としてリスペクトしていた

――あなたが住友金属と鹿島の強化において中心的な役割を果たしたのは、周知の事実です。ただし、1992年から1994年半ばまで、監督は宮本征勝でした。二人の役割分担とお互いの関係はどのようなものだったのですか?

【次ページ】 ファーストステージ優勝、しかし“あの事件”が

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