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〈森保ジャパンのキーマン〉新コーチ・名波浩のサッカー哲学の原点とは「ロッカールームで泣いている選手もいた」ジュビロ磐田が誇った史上最強時代の秘密
 

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北條聡

北條聡Satoshi Hojo

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photograph byJIJI PRESS

posted2023/06/16 11:03

〈森保ジャパンのキーマン〉新コーチ・名波浩のサッカー哲学の原点とは「ロッカールームで泣いている選手もいた」ジュビロ磐田が誇った史上最強時代の秘密<Number Web> photograph by JIJI PRESS

森保監督の右腕となる名波コーチ(右)

レアル対策として誕生した、2001年の『N-BOX』

 打ってつけの人がいる。最強ジュビロで攻守の両輪を回すキーパーソンとして君臨した名波浩だ。

「まず攻撃で言うと、ボールを奪ったあとの質が他のチームと比べて圧倒的に高かった。だから攻撃への移行がスムーズにいったと思う。パスをつなぐイメージがあったかもしれないけれど、遅攻だけじゃない。速攻も上手くこなせるチームだった」

 遅攻も速攻も。つまりは何かに偏っていなかったというわけだ。華麗なアタッキングフットボールという一面的な見方だけでは史上最強の理由が見えてこない。

 実のところ、磐田の黄金時代にもう一つ「史上最強」と呼ばれるチームがあった。2001年のそれだ。当時の主力選手たちの多くが4月7日に東京・旧国立競技場で鹿島アントラーズを2-1で破った一戦をベストゲームに挙げている。

 伝説の『N-BOX』がフル稼働していた頃だ。中盤の5人がサイコロの五の目のように並び、その中心に名波を据えた独特のシステムを操って、敵を攻守に圧倒している。この新布陣に漏れなくインストールされたのが前線から激しくプレスをかけて敵のボールを奪う守備戦術だった。

 Jリーグで勝つためではない。この年に開催される予定だった世界クラブ選手権において強豪レアル・マドリー(スペイン)の鼻を明かすアイディアだった。

2002年はもうN-BOXではない

 これが空前の高みへ押し上げる一因となったのは確かだろう。しかし、肝心の世界クラブ選手権は中止となり、国際舞台で日の目を見ることはなく、稼働期間そのものも短かった。ボックスの中心(N)だった名波が右ひざの半月板を痛め、長期離脱に追い込まれたからだ。画期的なシステムが機能したのは5月6日の第8節・G大阪戦が最後である。

 だから――と、名波が言う。

「2002年はもう『N-BOX』じゃない。自分のポジションはトップ下。中盤もボックス型ではなく、台形だった。いまでもそこを一緒くたにして語られてしまうことが多いけれど……」

 つまり、2001年と2002年は別のチームというわけだ。主力の顔ぶれは大きく変わらなかったが、N-BOXの一翼を担っていた奥大介が2002年に横浜F・マリノスへ移籍し、名波自身も以前の姿とは違っていた。

「あのケガで俊敏性がなくなり、従来のように前後左右を幅広く網羅するような攻守のハードワークを続けることが難しくなった。政一(鈴木監督)さんも自分のひざの状態を見て、N-BOXを解体するほかないという判断に至ったと思う」

【次ページ】 2001年は潰し守備、2002年は消しの守備

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