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「ウクライナのためなら死んでもいいと詠った詩だ」サッカー界の“英雄”シェフチェンコが筆者の前で暗誦した“祖国の詩”

posted2022/03/11 17:03

 
「ウクライナのためなら死んでもいいと詠った詩だ」サッカー界の“英雄”シェフチェンコが筆者の前で暗誦した“祖国の詩”<Number Web> photograph by Getty Images

2006年のワールドカップにウクライナ代表として出場した際のシェフチェンコ。現在は祖国への支援を呼びかけるなどの活動を行っている

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高山文彦

高山文彦Fumihiko Takayama

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ディナモ・キエフやACミランなどの強豪クラブ、そしてウクライナ代表として活躍したアンドレイ・シェフチェンコ(45歳)。現在は、ウクライナへの支援を各国に呼びかけるなど活動を続けている。2005年、当時28歳だった彼のもとを訪ね、取材を行ったノンフィクション作家の高山文彦氏が振り返る、“ウクライナの英雄”が語った祖国への思い――。

 アンドレイ・シェフチェンコはイタリア赤十字と強固な協力関係を結び、戦火の祖国に支援をはじめている。「私のなかで、もはやサッカーは存在しない」と語る彼は、何度国から去ってくれと頼んでも、「私たちはウクライナを離れない」と首を縦に振らない母と妹のことを例に出し、「これがウクライナの精神だ」と言っている。

 さて、ウクライナの精神とは何か。ひとことで言うとすれば、「不屈」ということになるのではないだろうか。

 私が彼にインタビューしたのは2005年4月21日、ミラノから1時間ばかり北へ行った保養地にあるACミランのクラブハウスだった。雪をかぶったアルプスの山々が、そう遠くなく見渡せた。

 ミラノやウクライナまで行ったのは、歴史にはそうは出てこない無血革命(オレンジ革命)を無事に終え、ロシアからヨーロッパへと軸足を移そうとする新政権が誕生したばかりだったからだ。偉大な革命を成しとげたウクライナ、その大地で生まれ育ったアンドレイに話を聞いてみたいと思ったのだ。

 会える確証のないまま、ミラノに赴く前に彼の母国へ行ってみようと、2歳まで暮らしていた片田舎の寒村を訪れ(祖父母が暮らしていた)、育った首都のキエフ、寄付をしているという田舎の孤児院、ディナモ・キエフ、小学校などを訪れた。チェルノブイリにも行った。爆発事故は彼が9歳のときのことだ。

ウクライナは決してプーチンやロシアに屈服しないだろう

 いくつもの場所で彼を知る人びとから話を聞き、生まれ故郷の村でかつてなにがあったのか、またバービ・ヤールの谷で起きたユダヤ人大量虐殺、ナチスによって4名が銃殺されたサッカーチームの惨劇の場所を歩いて、彼の血のなかに流れるものが民族の希望と悲嘆の歴史であることを知った。

 故郷の村ではスターリンによる集団農場(コルフォーズ)が強制され、農民はつぎつぎと土地や家畜を奪われ、自作にこだわる農民には高率の税をかけて挫(くじ)けさせようとした。協力しない農民は「人民の敵」と呼ばれ、土地を没収されたりシベリア送りにされた。全ソ連の台所の3分の1以上をウクライナで賄おうとして強引な食糧調達が開始され、共産党の一団は農家を一軒一軒まわり、床を剥がして穀物を探しまわった。飢えていない者は食糧を隠しているとみなされ、検挙されていった。

 こうして1932年から33年にかけて、ウクライナでは人為的につくりだされた大飢饉によって350万人が餓死し、出生率も激減し、人口減少は500万人に達したという。これをジェノサイドと言わずしてなんと言おうか。

 シェフチェンコ家の人びとも例外ではない。アンドレイの祖父は「共産党は来年の種子までとりあげていった」と息子たちに語っている。飢饉では母方の祖父の姉ふたりが餓死している。

 こうしたことを聞いてまわった経験からすると、ウクライナは決してプーチンやロシアに屈服しないだろう。なぜなら彼らの大半が決死の覚悟をもって臨んでいるに違いないからだ。

【次ページ】 シェフチェンコが暗誦した“ウクライナの詩”

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