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高津臣吾36歳と38歳…2度の“戦力外通告”も「まだやりたい気持ちはある」アメリカ、韓国、台湾…43歳で“現役最後のシンカー”を投げるまで 

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中溝康隆

中溝康隆Yasutaka Nakamizo

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photograph byHideki Sugiyama

posted2021/12/25 11:05

高津臣吾36歳と38歳…2度の“戦力外通告”も「まだやりたい気持ちはある」アメリカ、韓国、台湾…43歳で“現役最後のシンカー”を投げるまで<Number Web> photograph by Hideki Sugiyama

絶対的守護神として4度の日本一をもたらした高津臣吾監督(53歳)。そして指揮官としてヤクルト20年ぶりの日本一を果たした

 古田体制の2年目、07年シーズンをクローザーとして迎え開幕から3試合連続セーブの好スタートも、5月には救援失敗を繰り返し2試合連続の黒星。さらに6月30日の試合後、遠征先の秋田のホテルで左足親指を骨折して登録抹消されてしまう。オールスター明けに戦列復帰するも、8月3日の巨人戦で阿部慎之助に逆転2ランを浴び、再び抹消。この時点で5敗を喫し、防御率6.75と精彩を欠いた。

 チームも選手兼任監督の背番号27が右肩を痛めほとんど出場できず、Bクラスに低迷。9月19日、2日前にクライマックスシリーズ出場の可能性が完全に断たれたことを受け、会見に臨んだ指揮官は「寂しいより悔しい」と涙を流しながら選手引退と監督退任を発表する。皮肉にも、“捕手・古田敦也”の穴はあまりに大きく、球団21年ぶりの最下位に転落した。

38歳の“戦力外通告”「やりたい気持ちはある」

 そして、古田は07年10月7日、神宮球場の広島戦で引退試合に臨むわけだが、盟友・高津は3万3027人の大観衆が見守る中、9回表にマウンドへ。90年代のヤクルト黄金期を支えた名バッテリーは笑顔でハグを交わし、3人の打者に対して15球を投じ、2三振を含む三者凡退で抑えた。このラストダンスで名捕手は去るが、名クローザーはまだ終わらない――。

 多くのファンがそう信じたが、シーズン終了直後の10月10日、球団事務所に呼び出された高津は戦力外通告を受けるわけだ。07年は25試合で0勝5敗、13セーブ、防御率6.17。結果的に高津にとっても、古田の引退試合が神宮最後の登板となった。翌月39歳になる右腕は、「やりたい気持ちはある。体力は落ちても技術が落ちているとは思わない」と現役続行を模索していくことになる。

アメリカ→韓国→アメリカ→台湾

 08年春にシカゴ・カブスとマイナー契約も3月に解雇。古巣ホワイトソックスでテストを受け、約50球をブルペンで投げ込んだが不合格に終わる。ここで引退の可能性も……と報じるマスコミは多かったが、高津は6月に韓国の新球団ウリ・ヒーローズへ入団。8セーブ、防御率0.86と存在感を見せるも1年限りで退団すると、翌09年5月にはまたもトライアウトを経て、サンフランシスコ・ジャイアンツとマイナー契約。当時のスポーツニッポンによると、1月にもトライアウトを受けたがどこからも声が掛からず、数カ月のトレーニングで球速を戻して40歳7カ月の異例の再挑戦で掴んだチャンスだったという。

 野球に対する燃えるような情熱の薔薇が枯れるまで、高津はとことん現役にこだわり続ける。10年には台湾の興農ブルズへ。現地の料理が口に合い、カルチャーギャップなんて絶対大丈夫とお気に入りの食堂に毎日通った。11年は独立リーグの新潟アルビレックスBCでプレー。名球会選手が独立リーグのユニフォームを着るのは史上初のことだったが、流浪のクローザーは16セーブで最多セーブのタイトルを獲得して健在ぶりを見せつける。

43歳、現役最後の1球はシンカー

 そして12年、43歳で新潟の選手兼任監督に就任。

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