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世界王者を4人育てた帝拳ジムの名トレーナー・葛西裕一は、なぜアマチュアの“ボディメイク”指導者に転身したのか 

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二宮寿朗

二宮寿朗Toshio Ninomiya

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photograph byYuki Suenaga

posted2021/10/01 06:00

世界王者を4人育てた帝拳ジムの名トレーナー・葛西裕一は、なぜアマチュアの“ボディメイク”指導者に転身したのか<Number Web> photograph by Yuki Suenaga

今はアマチュア相手にボクシングやボディメイクを指導している名トレーナー葛西氏

「戦うための心が成熟しきれていなかった」

「キャリアを積んでいたら、クリンチして(ダメージから)回復させていたと思うんです。でもあのときは若いし、元々負けず嫌いですからね。戦うための心が成熟しきれていなかったというか、足りなかった」

 バスケス戦の初回KO負けによって、葛西への期待と評価はグンと下がった。しかしそれで自分を見失うほど、この人はヤワではない。むしろここからのストーリーが、葛西を語るうえでは欠かせない。

 帝拳ジムのバックアップを受けて単身ベネズエラに渡り、南米流のボクシングを直に学ぶ。クリンチのコツを含めた奥深いインサイドワークを習得するなど、ボクシング漬けの日々を送った。ラモン・グスマンとの南米王座を懸けたタイトルマッチには敗れたものの、自分のボクシングが骨太になっていることは実感できた。

「ベネズエラではあのウィルフレド・ゴメスにも教わりましたよ。“カサイ、俺のパンチはこうだぞ”って打ち方のコツまで。ベネズエラではボクシングのこと以外、頭には入らない生活でした」

トレーナーになるつもりはサラサラなかった

 帰国後、日本ではあのバスケス戦以来、11カ月ぶりの試合となった東洋太平洋タイトルマッチで無敗の王者・権熙允(韓国)を相手にダウンを奪うなど3-0判定で完勝する。スマートかつタフなスタイルは1年前のイメージとは随分と違っていた。

 それでも世界は遠かった。

 ラスベガスに渡って、WBA新王者となっていたアントニオ・セルメニョ(ベネズエラ)に挑戦するも、終盤の追い上げむなしく0-3判定負け。その7カ月後の1997年7月、日本に場所を移してのリマッチは最終12回に最後の力を振り絞って前に出ていくも、強烈な連打を浴びて後頭部をキャンバスに打ちつける壮絶なダウンでKO負けを喫した。27歳の葛西は世界に手が届かないまま、24勝(16KO)4敗1分けというキャリアで現役を終える決断を下すことになる。

「最後の試合は、一番頑張れたんじゃないですかね。やり切りました。倒れ方も悲惨でしたし、もう(現役に)未練はなかったです。3度も世界挑戦させてもらって、次というのはおこがましいですよ」

 トレーナーになるつもりなどサラサラなかった。人にボクシングを教えるというのは、どうも向いていないと感じていたからだ。

 だが帝拳ジムには3度も世界挑戦のチャンスをくれた恩がある。世界チャンピオンになることで報いるつもりだったが、それができなかったことはやはり心残りであった。

 ジムに少しでも恩返しを──。

 トレーナーへの転身は、言わば自然の流れでもあった。<後編へ続く>

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