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「この表紙は放映できません」タブー視された私の本 なぜ日本人は “スーパーの肉”しか見たくないのか 

text by

繁延あづさ

繁延あづさAzusa Shigenobu

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photograph byAzusa Shigenobu

posted2021/02/24 11:00

「この表紙は放映できません」タブー視された私の本 なぜ日本人は “スーパーの肉”しか見たくないのか<Number Web> photograph by Azusa Shigenobu

著者が出会った犬と猟をする男。仕事は「猿回し」だという

“なぜここまで隠されるのか”と思わずにはいられなかった。説明を加えると、この写真はよりおいしくするための工夫として、寒く乾燥する真冬に干された猪の体である。そのことは本にも書いており、読む人がこの写真の由来を知って、読み終わるときには表紙が違って見えるんじゃないかと想像していた。けれど、本を知って手に取ってもらわなければ、それも叶わない。

 世の中は“命の尊さ”“命をいただく”など命のキャッチフレーズに溢れている。まるでTwitterでリツイートされるように、誰もがその言葉を使う。命と向き合うムーブメントでも起きているかのよう。それなのに“動物”と“肉”が接続する写真はこんなにも忌避されてしまう。肉体は“命”そのものなのに。

<山で獣たちが死んでいくところを見ながら繰り返し思ったのは、

“命はこの肉体だけに宿っているんだ”ということだった。

猛々しくいなないていた猪が心臓を突かれ、一瞬で声を失い、ドサリと倒れたとき、肉体は目の前にあるのに、あの怒りに駆られた猪の精神のようなものはどこかへいってしまった。(P223)>

 自主規制ってなんなのだろう。テレビで放映できないと立て続けに言われたあと、トークイベントでその話をした。すると参加者のひとりが「そうした(あらかじめ自主規制された)情報しか流れてこないことに嫌悪すら感じる」と言った。公共性を考慮して自主規制された情報だけになったとき、今度はその情報が公共性を欠く――。そうしたことが起こりうる社会の、今はどの辺りなのだろうかと思った。

“スーパーの肉”しか見たくない理由

「誰も傷つけない」という言葉には“正しさ”を感じる。何かを伝えようとするとき、受け取り手のさまざまな立場や心情を慮ることは大切だ。ただ、そこにどっかり乗っかってしまうと、自主規制にブレーキが効かなくなるんじゃないだろうか。

 私がこの写真を表紙にしたかったのには、かすり傷ぐらい負ってもらってもいいという気持ちが密かにあったように思う。いや、書いているときからそんな心情が芽生えていたかもしれない。山と台所で受け取ってきたものの中に、人が“見たくないもの”が含まれている気がしていた。でも、それを避けては著せないものがあるとも思っていた。

【次ページ】 “スーパーの肉”しか見たくない理由

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