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菊池寛と一緒に「無観客ダービー」へ。
生き証人が語る1944年の日本競馬。 

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島田明宏

島田明宏Akihiro Shimada

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photograph byKyodo News

posted2020/08/13 11:30

菊池寛と一緒に「無観客ダービー」へ。生き証人が語る1944年の日本競馬。<Number Web> photograph by Kyodo News

76年ぶりの無観客開催となった今年の日本ダービー。1944年の日本競馬もまた、時代に翻弄されての開催だった。

「吉川英治さんもいたような」

 史上初めてとなった無観客ダービーは、6月18日に行われた。

 前出の矢崎氏は、この年、まずは甲府、次に水戸に疎開していたのだが、どちらも安全ではなくなったため、3月10日に東京に戻っていた。

「東京の半分は空襲で焼け野原になっていたのですが、競馬場のある武蔵野は大丈夫でした。その年のダービーにも、所有馬を走らせていた菊池先生と一緒に行きました。先生はステッキを手にし、背広を着ておられました。財布を持たない人だったので、お金を入れるポケットがたくさんある背広が便利だったのだと思います。ほかにいたのは、私の父と、先生の愛人の佐藤みどりさん、吉川英治さんもいたような気がします」

みな「このレースが最後だ」と。

 無観客競馬ではあったが、厩舎関係者や馬主などの関係者は入場できた。「日本ダービー25年史」には200~300人、「日本ダービー50年史」には約200人いたと記されている。

「着物の人も多かったですね。腰にサーベルをさげた軍人もいました。私は、通っていた成城学園がそうだったので背広にネクタイでした。年齢のそう変わらない子どもがほかにもいたように記憶しています。牧場の子だったのでしょうか。

 みな『このレースが最後だ』という思いを持っていたように感じました。菊池先生は、その前の年ぐらいから『この戦争は勝てない。いつかやめないと大変なことになる』とおっしゃっていました。負けたら日本はなくなると思っていたので『一億火の玉』とか『一億玉砕』などと言われていたのでしょうね」

 敵性語排斥がなされていたため、「ダービー」ではなく、名称どおりの「東京優駿」と呼ばれていたという。今のようなレース実況も、歓声もなく、蹄音と鞭の音だけが響く、静かな戦いになった。

【次ページ】 ダービーの現地観戦が途切れた2020年。

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