オリンピック4位という人生BACK NUMBER
<オリンピック4位という人生(10)>
梶山義彦「境界線に落ちた涙」
text by
鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph byKyodo News
posted2020/05/31 11:30
三菱自動車川崎の外野手・梶山義彦はそのバッティングを買われ、日本打線の7番を担った。
プロもアマも関係ない。勝ってほしい。
梶山自身も、目頭にこみ上げてくるものを抑えることができなかった。気づけばあの日、テレビ画面で見たアトランタの決勝。彼らが流したのと同じ涙を流していた。
その夜、史上初の混成チームはプロもアマもなく互いの部屋を行き来したという。
「寄せ書きをみんなで書いたり、道具を交換したり、そういうことをしましたねえ。それは今も大切な思い出です」
朝がくれば、また境界線が彼らを隔てる。プロとアマは別々の便で帰国し、それぞれの世界に戻っていく。そんな束の間の夜、梶山は手にしたものを実感していた。どうしようもない悔しさと、与えられた条件ですべてを尽くした末の涙。ひとつになった証。それは今も梶山の胸から消えていない。
その後、オリンピックの野球はプロのものになった。アテネでは1球団2人の編成で銅メダルに終わり、オールスター編成で臨んだ北京は4位だった。
「おそらく力を結集すれば日本は世界一です。でもそれが難しいんですよ……」
来夏の東京、13年ぶりに野球がオリンピックに戻る予定だ。三菱自動車岡崎のコーチとして、アマチュア野球の一員として、それを待つ梶山の願いはひとつだ。
「プロもアマも関係ない。とにかく勝ってほしい。日本野球は勝たないとだめです」
あの日の自分たちと同じ血が流れる野球人に、あらん限りの念を送るつもりだ。
梶山義彦(野球)
1970年7月24日、静岡県生まれ。静岡高から三菱自動車川崎(現三菱ふそう川崎)入社。'97年、'99年と社会人ベストナインに選出される。'08年野球部が休部となり、その後現役引退。現在は三菱自動車岡崎の硬式野球部コーチを務める。
◇ ◇ ◇
<この大会で日本は…>
【期間】2000年9月15日~10月1日
【開催地】シドニー(オーストラリア)
【参加国数】199
【参加人数】10,651人(男子6,582人、女子4,069人)
【競技種目数】28競技300種目(トライアスロンなどが追加)
【日本のメダル数】
金5個 田村亮子(柔道48kg級)、井上康生(柔道100kg級) など
銀8個 女子ソフトボール、シンクロ女子チーム など
銅5個 競泳女子4×100mメドレーリレー など
【大会概要】
この年の6月に南北共同宣言を行った韓国・北朝鮮の選手団が開会式で統一旗
を掲げ、合同入場行進を行った。スティーブ・レッドグレーブ(イギリス)がボート競
技で大会5連覇達成。3大会連続出場の田村亮子(現姓・谷)が悲願の金メダル。「最高で金、最低でも金」が流行語に。初出場の北島康介(100m平泳ぎ)が4位。
【この年の出来事】
三宅島噴火。世田谷一家殺害事件。慎吾ママの「おっはー」が流行語大賞。