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錦織、ジョコ、フェデラーを口説き、
ユニクロとテニスを繋いだ坂本正秀。 

text by

内田暁

内田暁Akatsuki Uchida

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photograph byHiroshi Sato

posted2020/03/18 11:40

錦織、ジョコ、フェデラーを口説き、ユニクロとテニスを繋いだ坂本正秀。<Number Web> photograph by Hiroshi Sato

錦織圭、ユニクロ柳井社長、フェデラー。彼らが一緒に笑顔で写真に収まるのは坂本正秀の粉骨砕身あってこそだ。

「プロは無理だ。大学に行け」

 かくしてコーチや選手間の評価を上げた坂本は、トップガンにも昇格し、クルニコワの指南係をボロテリー直々に指名されるまでの信頼も勝ち得ていく。坂本が属した当時のトップガンには、そのクルニコワをはじめ、後に世界2位に上り詰めるトミー・ハースや、今季から錦織圭のコーチに就任したマックス・ミルヌイらもいた(写真はトップガンの南米遠征時のもの。左端がハース、左から3人目がクルニコワ、その後ろがミルヌイ、右端が当時17歳の坂本氏)。

 その超エリート軍団と常に行動をともにしていた坂本は、当然のようにプロになることを心に決める。

 だが、全米オープンジュニア出場も果たし、自信と希望に胸を満たした18歳の秋、ボロテリーに言われたのは「お前はプロでは無理だ。大学に行け」の一言。坂本曰く、「冷水をぶっかけられた」時であり、少年時代の終わりに見ていた夢から、強制的に覚まされた瞬間である。

 それでも、「すぐにプロになってやる」と意気込み進んだ当時の全米トップクラスの名門ペパーダイン大学では、クラブ内の試合で敗れ、結果的に落ち着いたのはシングルスの5番手だった。

「こんなんでプロで通用すると思っていた自分が恥ずかしかったし、その時には素直に、ニック(・ボロテリー)にありがとうと思いました」

 その後もプロへの夢は抱き続けたが、同じ釜の飯を食べたハースらが世界の頂きに近づくにつれ、わだかまりや固執も薄れていく。大学4年生時にはキャプテンも務め、多くの国から集ったチームメイトをまとめ上げたことも坂本の視野を広げた。

「テニス選手とは違う道で、トミー(・ハース)たちとも、胸を張って対等な目線で語れるようになってみせる」

 大学を卒業した頃には、それが坂本の新たなモチベーションとなっていた。

16歳の錦織圭と手作りおにぎり。

 大学卒業後に帰国し実業団で活躍した坂本は、日本テニス協会公認S級エリートコーチの資格を取り、IMGアカデミーへの留学経験を持つ不田涼子のコーチを務めた。

 その不田に同行してアカデミーを訪れた時、親交を深めたのが当時16歳の錦織圭である。ケガでリハビリ中だった錦織を何かと気にかけた坂本は、一緒に食事をしたり、息抜きでミニゴルフやゴーカートにも連れていった。

 そうして、坂本たちが滞在を終えて車でマイアミに戻る時、錦織は「お世話になったお礼です。車の中で食べるのにいいかと思って……」と、手作りのおにぎりを手渡してくれた。やや塩味が濃すぎる握り飯だったが、その心遣いに一同はいたく感動する。

「この子はきっと強くなる。感謝の気持ちをこんなにピュアに表現できるから、自然と人を引きつけるし、周囲も彼を助けたいと思うだろう」
 坂本はその時、確信に近い予感を抱いた。

【次ページ】 錦織と柳井氏をパリで引き合わせた。

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