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大林素子は"戦犯"の名を背負った。
<オリンピック4位という人生(6)> 

text by

鈴木忠平

鈴木忠平Tadahira Suzuki

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photograph byPHOTO KISHIMOTO

posted2020/02/23 11:40

大林素子は”戦犯”の名を背負った。<オリンピック4位という人生(6)><Number Web> photograph by PHOTO KISHIMOTO

1988年ソウル五輪のグループ初戦でソ連に勝利した大林(当時は10番)ら。日本に敗れたソ連は予選を通過後、金メダルを獲得した。

山田監督はネットを切り裂いた。

 蛍光灯に照らされた体育館がよみがえる。

 ソウル五輪への出場権を手にしてからおよそ1年、日本はソ連対策にすべてを費やしてきた。「当時、世界最強と言われていたソ連を倒せば金メダルだと。私たちの頭にはそれしかありませんでした」

 ネットの向こうに対するのは男子チームだ。コーチ陣や高校、大学から集めてきた190cmに迫る“打ち屋”ばかり。彼らは胸に「スミルノワ」「オギエンコ」などとマジックペンで書かれた名札をつけて、髪型を女性らしく変えて、中にはすね毛まで剃っている者もいた。

 そしてソウル五輪の足音が迫るなか、仕上げに最後の仮想ソ連戦がおこなわれた。

「そこで結局、フルセットで負けちゃったんですよ。私たちはロッカーに戻って着替えながら『悔しいね、絶対オリンピックでは勝ってやろうよ』と、すごくまとまったんです。でも体育館に戻ったら、監督がハサミと錐を持ってこいと……」

 監督の山田重雄は選手たちの前で何も言わずネットをハサミで切り裂き、ボールに次々と錐を突き刺した。大林の記憶では、誰もが泣きながら「やめてください!」と訴えると指揮官は初めて口を開いたという。

『俺は今日がオリンピックだと思って戦っていた。負けて、オリンピックは終わった。だから、もうこれは必要ないだろう』

大会直前、手紙で別れを告げた。

 誰もが悔しいのか、悲しいのかもわからずに泣いていた。嗚咽の響く体育館で、主将の江上由美だけが耐えているように映った。彼女はロサンゼルスの銅メダルメンバーだった。メダリストなのに帰国後は称賛より非難を浴びるという経験をしていた。1964年の東京で「東洋の魔女」が金メダルをもたらしてから銀、銀、金、銅と五輪でメダルを獲るたび“日本のお家芸”は期待と裏返しの重圧に苛まれてきた。

「つまり練習でできないことは試合でできない。オリンピックに次はないということなんです。(江上)由美さんはロスでああいう思いをして『生半可じゃないよ』という覚悟があったと思います。メダルを獲らなきゃ生きて帰れないという空気でした」

 大林は、山田や江上の姿を見て、オリンピックがどういう舞台なのかを知った。

 だから大会直前、高校時代から想いを寄せ合っていた男性に手紙で別れを告げた。

「バレーに集中したいということでした……。私だけでなく、みんながそれぐらい全てを投げ打っていたんですよ」

 漢陽大に響く、悲鳴と歓声。マッチポイントが行ったり来たりした激闘はタイムアウトの輪を解いた日本が19-17と逆転して勝った。最後に決めたのは大林だった。ひとつの到達に、泣きだしてしまう者もいた。

 あれだけやったのだから。やはり、それが彼女たちの最大の信仰だった。

【次ページ】 格下ペルーに負け、中国にも。

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