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武豊も愛したディープインパクト。
人間なら50代、飛ぶように逝く。
 

text by

島田明宏

島田明宏Akihiro Shimada

PROFILE

photograph byTakuya Sugiyama

posted2019/07/31 11:55

武豊も愛したディープインパクト。人間なら50代、飛ぶように逝く。<Number Web> photograph by Takuya Sugiyama

武豊が「飛んでいるようだった」と評したディープインパクト。無類の強さで愛されたサラブレッドが17歳の生涯に幕を閉じた。

「強さ」だけでヒーローとなった。

  過去にも国民的アイドルとなった競走馬は存在した。

  1970年代前半に、地方の大井から中央入りして皐月賞を制した「野武士」ハイセイコーや、1980年代の終わりに地方の笠松から中央に移籍して連勝街道を突き進んだ「白い怪物」オグリキャップがその代表だ。

  これら2頭はともに地方出身という、日本人の判官贔屓の心をくすぐる出自を持っていたが、ディープは、血統も、厩舎も、騎手も超一流のエリートだった。その強さだけで国民的アイドルになった初めての馬。それがディープインパクトだった。

  時代が待望していたヒーローでもあった。2000年代のなかごろは、生活を変えると思われたITバブルがあっけなく終わり、国民の圧倒的支持を得ていた小泉純一郎内閣が往時の勢いを失いつつある時期だった。スポーツ界においては、一強時代の真っ只中にあった朝青龍、一般メディアでも注目されたボクシングの亀田三兄弟など、クセのある王者が強さを誇っていた。

 そんな時代にあって、もの言わぬサラブレッドであり、出自にも特にドラマのないディープインパクトは、自身の純然たる強さだけで人々の心を動かした。

獲れなかった凱旋門賞。

 競馬を知らない人でも、ディープの爆発的な末脚をひと目見れば、「この馬は世界で一番強い」と確信することができた。そんな特別な強さを見せつづけ、私たちを熱狂させた、希有な競走馬であった。

 クラシック三冠のほか、4歳になってから天皇賞・春、宝塚記念、ジャパンカップ、有馬記念を勝ち、約2年の競走生活で史上最多タイのJRA・GI7勝を挙げ、'06年限りで現役を引退した。

  通算14戦12勝。敗れた2戦は、3歳時に2着となった有馬記念と、4歳時の'06年に3位入線後失格となった凱旋門賞だった。

  世界最高峰の凱旋門賞のタイトル獲得の夢は、産駒たちに託すことになった。

【次ページ】 ディープの血は今も生きている。

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