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“仙台のヘリコプター”中原貴之、
ユアスタの伝説と手を抜かない姿勢。 

text by

杉園昌之

杉園昌之Masayuki Sugizono

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photograph byJ.LEAGUE

posted2019/05/06 17:00

“仙台のヘリコプター”中原貴之、ユアスタの伝説と手を抜かない姿勢。<Number Web> photograph by J.LEAGUE

中原貴之が伝説となった2009年の湘南戦。写真で見ても驚くべき打点の高いヘディングだった。

不満を抱えてもパワーに変える。

「絶対、手を抜かなかったですね。不満も抱えていましたが、それをパワーに変えていました。当時コーチだったナベさん(現仙台・渡邉晋監督)、原崎(政人)さん(現大宮アルディージャコーチ)には居残り練習に付き合ってもらい、愚痴も聞いてもらいました。レギュラー組に負けてたまるかという思いは、ずっと持っていました」

 プロ4年目にアルビレックス新潟へレンタル移籍('06年)できたのも、全力で取り組んでいた練習試合のおかげ。鈴木淳監督(当時)の目に留まり、オファーを受けたのだ。

「あのとき、あらためて思ったんです。どんな試合でも誰が見ているか分からないって」

 ただ、努力は必ず報われるものではない。右足で跳び、右足で着地する動作を繰り返してきた代償として、キャリア終盤は度重なる右ヒザの故障に悩まされた。

現浦和・武藤が学んだこととは。

 '03年から'14年まで仙台に在籍し、開幕スタメンで出たのは'08年、'10年のみ。その2季もシーズンを通して、定位置を確保できなかった。それでも練習試合では、どん欲にゴールを狙い続けた。同じ控え組で中原と2トップを組んでいた武藤雄樹(現浦和レッズ)は、その先輩の姿勢を見て、多くのことを学んだ。

「あのときの僕は、いらいらばかりを募らせていましたが、同じ境遇の中原さんは練習から必死だったし、真摯に取り組んでいました。僕にも声を掛けてくれ、"俺らはやるしかないんだ。不満をパワーに変えよう"とよく言ってくれました。いまとなっては本当に感謝しています」

 仙台を離れても、練習に打ち込む姿勢は変わらなかった。'15年から'17年まではアビスパ福岡に在籍し、計37試合出場、8得点。現役最後の'18年シーズンはJFLのラインメール青森でプレーし、8試合に出場。完全燃焼できたのかと聞けば、苦虫をかみつぶしたような表情になる。それでも、16年間歩んできたプロサッカー人生に悔いはない。

【次ページ】 古巣のサッカースクールコーチに。

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中原貴之
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