ボクシング拳坤一擲BACK NUMBER
パッキャオの戦いは常に痛快だった。
遂に引退した「英雄」の壮絶な歴史。
posted2016/04/12 07:00
text by
渋谷淳Jun Shibuya
photograph by
AFLO
ボクシング界にセンセーションを巻き起こしてきたマニー・パッキャオ(フィリピン)が4月9日(日本時間10日)、米ラスベガスのMGMグランド・ガーデン・アリーナで、過去1勝1敗のティモシー・ブラッドリー(米)と対戦。3-0判定勝ちを収め、リング上から「家族とフィリピンのためにこれで辞める」とかねて表明していた通り引退を宣言した。
1年前の“世紀の対決”フロイド・メイウェザー(米)との試合後、右肩を手術したパッキャオは11カ月ぶりのリングで復調ぶりが心配された。実際のところ、試合開始直後は動きが硬く、ブラッドリーのスピードについていけないのではないか、と思わせた。
しかし、2回以降はサウスポースタイルから得意のワンツーを打ち込んで会場を沸かせ、徐々にペースをつかんでいく。7回に奪ったダウンはスリップ気味だったが、9回にはアッパー気味の左を決めて、ブラッドリーがキャンバスに一回転。結局、7年ぶりのKOとはいかなかったものの、見せ場を作った上での勝利で有終の美を飾った。
およそ1年ぶりの試合ということを考えれば、パッキャオのパフォーマンスは悪くなかったと思う。本人が「肉体的にはまだやれる」と語ったように、いまだトップ級の実力を保持していると言えるだろう。ただし全盛期のようなキレ、世界中を沸かせた豪快なステップインはもはや望むことはできない、と感じたのも事実だ。
デラホーヤの前座としてスター街道は始まった。
若かりし日のパッキャオを知る者で、この若者がボクシング史に大きな足跡を残し、世界中のファンに惜しまれながら引退すると予想できた人はいただろうか。フィリピンの貧しい農家の四男としてこの世に生を享けたパッキャオは、20歳になる直前に初の世界タイトル(WBCフライ級)を獲得し、V2戦の前日、契約体重を作れずにあえなく王座を失った。
アジアの片隅に生息する世界的に無名の元軽量級王者。そんなパッキャオが“グレート”への第一歩を踏み出したのは2001年6月のことだ。最終戦と同じラスベガスのMGMグランドで行われた当時の大スター、オスカー・デラホーヤの世界タイトルマッチの前座にピンチヒッターで登場し、2階級制覇を達成したのが始まりだった。
そして'03年、メキシコの実力者、マルコ・アントニオ・バレラとの試合で勢いが加速する。不利と言われたバレラ戦に快勝すると、その後はフェザー級、スーパーフェザー級を主戦場として、フアン・マヌエル・マルケス、エリック・モラレス、そして再びバレラとメキシコのビッグネームと激戦を繰り広げ、グングンと評価を高めていった。