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波乱万丈の野球人生で鍛えた、
日本ハム・榊原諒の“全天候型”能力。 

text by

氏原英明

氏原英明Hideaki Ujihara

PROFILE

photograph byNIKKAN SPORTS

posted2010/09/27 12:20

波乱万丈の野球人生で鍛えた、日本ハム・榊原諒の“全天候型”能力。<Number Web> photograph by NIKKAN SPORTS

“救援”投手とは、まさに、彼のことを言うのだろう。

 初勝利を挙げた、6月15日のヤクルト戦の緊急登板に始まり、中継ぎだけで実に10勝を挙げている。中継ぎ投手の二ケタ勝利は、最近では特に珍しいことではないのだが、この男は、常に、チームを“救援”する投球を続けている。

 日本ハム・榊原諒は39試合に登板し10勝1敗。防御率2.63とCS進出を争うチームの投手陣を支えている。

 彼の活躍が驚きなのは、そのヤクルト戦にしても、2勝目を挙げた6月18日のオリックス戦にしても、先発投手のアクシデント降板から、10球にも満たない投球練習でマウンドに上がった末に、快投しているということだ。緊急登板で、これほど高いレベルでのパフォーマンスを発揮できる投手はそういない。

 今となっては、「榊原が投げれば勝つ」とさえいわれている。“強運リリーバー”と報じるメディアもあった。

 とはいえ、その功績を「運」で片づけられてしまっては困る。裏打ちされたしっかりとした力が榊原にあることも、また事実なのである。

高校卒業後、入社した三菱自動車岡崎野球部が休部に。

 榊原は、MAX150キロのストレートと切れのあるスライダー、シュートなどの変化球、正確なコントロールが評価されて、'08年のドラフトで2位指名を受けた。アマチュア時代は速い球も投げたが、本格派右腕と言うより、バランスのとれた投手だった。ランナーを背負ってもクイックが速く、フィールディングをそつなくこなす。身長176センチという大きくはない上背ながら、高い評価を受けたのはピッチャーとしての総合的な力が認められてのものだ。

 ただ、そんな榊原の野球人生は、すべてが順風満帆だったわけではない。

 中京高校(岐阜)3年の春のセンバツに出場。実績もあったが、大学へは進学せず、地元に近い三菱自動車岡崎に入社し、その力を磨くことになった。もちろん、3年後以降のプロを目指していた。

 ところが、彼が入社してすぐ、親会社のリコール問題が明るみになり、三菱自動車岡崎野球部が休部を余儀なくされたのだ。移籍も考えたが、1年目でまだ実績もない彼の行き先などそう多くは望めるはずもなく、野球部を辞めるか、休部状態のチームに残るか、宙ぶらりんの立場に彼は追いやられた。

 そんな状況を見抜いて、声を掛けてきたのが関西国際大だった。創部して10年にも満たない地方リーグの新興勢力である。監督を務める鈴木英之は、神戸製鋼時代に休部を経験した身で、当時18歳の榊原の事情が理解できた。「18歳の選手の移籍先なんてないんですよね。だから、本人に連絡を入れて、もう一度学生野球をやってみいひんか? と誘った」そうだ。榊原は関西国際大にいた高校時代のチームメイトに状況を聞き、1年遅れで大学野球に身を転じた。

【次ページ】 現在の姿に重なる大学時代の波のないピッチング。

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