黄金世代、夢の行方BACK NUMBER
なぜ加地亮は代表を引退したのか?
消えぬ情熱とブラジルW杯への夢。
text by
佐藤俊Shun Sato
photograph byTakamoto Tokuhara/AFLO
posted2010/05/17 10:30
日本代表の引退発表後、その言葉どおりガンバ大阪でACL優勝を果たし、クラブワールドカップでも活躍した
5月10日、南アフリカ・ワールドカップメンバー23名が発表された。そのリストの中に、今季好調を維持していた小野伸二、昨年のJリーグMVPの小笠原満男の名前はなかった。そして、また多くの人が復帰を熱望していた加地亮の名前もなかった。
「代表引退しているんで初めから期待もしてないし、別にどうこう言う気持ちもない。自分の中では、ずいぶん前に整理がついてることなんで。代表に名前が上がったりしたのは嬉しかったですけどね」
加地は、冷静にそう語った。
加地は、ジーコ代表の時、不動の右サイドバックとしてプレーし、ドイツW杯に出場した。オシム監督時にも代表に選出され、アジアカップではレギュラーとしてプレーした。しかし岡田監督になり、2008年5月20日、突然、代表引退を宣言した。それは、あまりにも唐突で不自然だった。
彼にとってサッカーは“仕事”だった。それは家族を養うためのものであり、だからこそ苦しくても常に全力で走り続けポジションをキープしてきた。そんな選手が、自ら本当に大事にしていた“仕事”を放棄するとは考えられなかったのだ。
加地の代表引退はレギュラー剥奪が理由ではない。
ただ、代表引退の引き金になったであろう出来事がいくつかあった。
2008年2月の東アジア選手権では、まったく経験のない左サイドバックとして起用され、サイドバック失格の烙印を押された。駒野友一のようなユーティリティーさを求められたが、右サイド1本で勝負してきた加地に代表レベルで求められるプレーが即席でできるはずもなかった。
同じ頃、川口能活が岡田監督にレギュラーを剥脱されてサブで残るか、それとも代表を離れるかの選択を迫られ、サブになって代表に残ることを選択していた。加地も内田篤人のバックアップというポジションになり、きっと川口と同じようなことがあったのだろうと推察する。代表引退は「ポジションを失ったから」という言われ方もされたが、ポジションについては、加地はこんなことを語っている。
「ケガしたり、いいプレーできなくて、ポジションを奪われたりするのは自分が悪いからで、しゃーないでしょ。でも、それで死ぬわけじゃないからね。必死に取り戻そうとかじゃなく、地道にがんばるしかない。あんまり人と競争するのが好きじゃないし、抜かれたら抜き返そうとするのもイヤ。自分は自分なんで、人はあまり関係ない」
加地は、サブになったとしても、チームから彼に期待する言葉があり、それを自分なりに納得できていれば黙々と努力し続けていたはずだ。実際、1999年のナイジェリア・ワールドユースの時もサブだったが愚痴もこぼさず、髪の毛を丸刈りにしたりとチームの雰囲気を盛り上げていた。ジーコ代表の時も、ケガをしてしまい、代わりに駒野が台頭してきた時でさえ、「そうなんだ」と気にする素振りを見せず、腐らずに淡々と自らのプレーを取り戻すことに集中していた。サブであっても、チームのために、地道に自分の役割を果たせる選手なのだ。