Sports Graphic NumberBACK NUMBER

『ふたつの東京五輪』 第1回 「五輪前夜」 <前編> 

text by

松原孝臣

松原孝臣Takaomi Matsubara

PROFILE

photograph byPHOTO KISHIMOTO

posted2009/05/20 11:30

 『ふたつの東京五輪』 第1回 「五輪前夜」 <前編><Number Web> photograph by PHOTO KISHIMOTO

東洋の魔女 写真

 1964年10月23日、バレーボール女子日本対ソ連の決勝戦。“東洋の魔女”が金メダルを手にした瞬間、テレビの視聴率は85%に達した。

 日本中が固唾を飲んで見守った歴史的瞬間、若き日の岸本健は公式記録写真のカメラマンとしてその場にいた。駒沢屋内球戯場はとにかく暗かった。フィルムも現像技術も今ほど発達していない時代。連日連夜、死に物狂いでアスリートの姿をフィルムに焼きつけていた。

 特別連載企画『ふたつの東京五輪』は、2016年東京五輪招致にあわせ、日本初のフリーランス・スポーツカメラマン岸本健が東京五輪の記憶を綴った物語である。

 

岸本健さん

70歳を過ぎた今でも現役カメラマンの岸本健氏。2016年東京五輪への想いは若き日と変わらない

 私はこれまでに23回、夏・冬オリンピックの撮影を行なってきました。その最初が1964年の東京オリンピックであり、新しいところでは昨年の北京オリンピックです。つまり、日本が不参加だった1980年のモスクワも含めて、東京以後すべての大会を現地で撮り続けたことになります。

 振り返ると、スポーツ写真を撮るきっかけはふとしたことからでした。

 私は1938年に北海道で生まれましたが、写真の魅力を知ったのは、中学時代のことです。学校のクラブで、カメラを借りて撮影したのです。なによりも楽しかったのは、撮ったフィルムの現像作業をしていて紙の上に映像が出てくる瞬間。暗室などありませんでしたから、夜真っ暗になってから部屋で作業をしていました。そのときに感じた楽しさが、私の写真家としての原点なんです。

 

修行の場を飛び出してしまった若き日。スポーツ写真はほぼ独学。

 高校を卒業すると上京し、銀座の松屋にあった写真館で修行を始めました。1957年のことです。

写真

大相撲協会も全面的に東京五輪へ協力していたことが分かる、吊り屋根の上の垂れ幕

 写真館で仕事をしているさなか、たまたま知り合った人に日本体育協会で写真を撮っている方がいたんです。若松不二夫さんといって、リアリズム写真の大家として知られる土門拳さんの親戚でもあった人です。この人の下で写真を撮り始めたのが、スポーツ写真の道に入るきっかけとなりました。1958年でしょうか。ちなみに日本体育協会は、当時も今も岸記念体育会館内にありますが、その頃は原宿ではなく御茶の水にあったんですよ。

 すぐに松屋の写真館を辞めて、若松さんの下でスポーツの撮影を行なうようになりました。

 しかし、「頭を下げるのは嫌だ」と飛び出してしまい、自分自身で撮影活動を始めることとなりまして(笑)。それが1962年か1963年のことだったと思います。

 どこかの会社に所属する気はもうありませんでした。フリーランス・カメラマンとして生きたかったんです。

 今でこそフリーランスのスポーツカメラマンの方はたくさんいますが、当時は私の他に一人もいませんでした。試合を撮りに会場に行ったとしても、そこには新聞社などの肩書きをもったカメラマンの人たちしかいなかったんですね。

 時代が牧歌的だったというか……関係者と顔見知りになれば、会場に行って撮影をしたいと言うだけで入ることができました。

► 【後編】 「とにかく貧しかった。フィルムを買えないことが一番辛かった」

前編 | 後編

関連キーワード
東京五輪

ページトップ