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「なんすか、この縁の濃さは」金子達仁がアウェーで、隣の“美女×2”と目撃したオランダ戦「これっていい引き分けですか」《エッセイ》

2026/07/12
双子の姉エラさん(左端)と妹サスさん(左から2人目)は同胞に囲まれ大興奮
2026.6.15、vs.オランダ。サッカーを追い続ける男が対戦国の“巣窟”に潜入した。(原題:[アウェー観戦記(1)]金子達仁の四面楚歌 オランダ編)

 恩返しがしたい、と思った。

 前回メキシコでワールドカップが開催された1986年当時、日本サッカーは世界から隔絶された存在だった。多くの日本人は世界のサッカーを知らず、世界のほとんどは日本のサッカーを知らなかった。

 日本がワールドカップに熱狂する日なんて、世界が日本のサッカーに注目する日なんて、永遠に来ないと思っていた。

 変えたのは、変えるきっかけを作ってくれたのは、オランダ人だった。

「わたしの仕事は日本をワールドカップに連れて行くことです」

 1992年3月17日、代々木にあった岸記念体育会館の会議室だった。就任会見に出席した記者は20人か、せいぜい30人程度だったように思う。その日の午前中にKLMオランダ航空便で来日したばかりだというこのオランダ人ならば、きっとやってくれる――なんて思った記者は、たぶん、誰もいなかった。唖然。それが小さな会議室に広がった空気だった。

 そこからの急激な変化については、詳しく触れる必要もないだろう。わずか1年半後の1993年10月28日、日本対イラク戦を中継したテレビ東京の視聴率は48.1%に達した。1989年、イタリア・ワールドカップ予選を西が丘サッカー場で戦い、対戦したインドネシアの監督から「こんな小さなスタジアムで試合をしたのは初めてだ」と呆れられた国が、国民の半分がワールドカップ予選に釘付けとなる国に変わったのである。

 ハンス・オフトがいなければ、いまの日本サッカーはない。マツダ時代の彼に指導を受けていなければ、森保一のいまもない。

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photograph by Shigeki Yamamoto

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