自由を求める美学の男と、頑ななまでに己を貫き通す男。昨夏、棋界の最上位に位置する2人が残した棋譜にはAI全盛の時代にも変わることのない、棋士同士の戦いのみでしか生まれないものが確かにあった。
晩夏の大阪は強い雨が降っていた。
佐藤天彦は9時に遠征先のホテルで目を覚まし、身支度を整えてからタクシーで関西将棋会館に向かった。全身黒色のコーディネートで、フリルのついたシャツを着用。胸ポケットには白のハンカチーフを差した。
菅井竜也は8時半に起きて9時にホテルを出た。コンビニエンスストアで飲料などを調達し、9時15分に徒歩で会館入りした。他の棋士よりかなり早いが、30分前には対局室で気息を整える。ブルーのスラックスに白の長袖のワイシャツという装い。2人ともノーネクタイで暑さをしのいでいた。
歴代永世名人の掛け軸を背にした上座の佐藤が駒箱を開け、飴色の駒を盤上に散らした。2021年9月3日午前10時、関西将棋会館「御上段の間」。第80期A級順位戦3回戦の長い1日が始まろうとしていた。
順位戦は名人戦につながる重要な棋戦だ。
A級には頂点を極めた10人が集っており、9回戦で行われる。ここまで両者とも1勝1敗で迎えた一局だった。
「この勝敗で挑戦か残留か、リーグで当面目指すものが変わってきます。またA級の成績は普段の精神状態にも影響を与えます。降級の危機があると、思考の伸びやかさが失われてくる」と佐藤は言う。
一方、菅井は勝敗を意識していなかった。
「まだ3回戦ですし、A級はみんな強いので、勝ち負けを考えても仕方がない」
先手の菅井が得意の中飛車に構えた。居飛車に比べて振り飛車はAIの評価が低いが、菅井は修業時代から貫き通している。
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photograph by Atsushi Kimura