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[ドキュメント竜王戦第4局]藤井聡太「名局を決した幻の歩」

2022/01/20
竜王奪取の一戦には「奇跡的」と表現された幻の局面がある。そこに歩が打てることを知っていたのは藤井聡太ただひとりだった――。19歳が最高位を手にした歴史的な夜を追う。

 竜王の玉は詰み筋に入っていた。

 すでに勝負は決していたが、将棋は自分で負けを認めなければ終局しない。豊島将之はゆっくりと席を立った。まだ持ち時間は40分も残っている。藤井聡太は握りしめていた扇子を置いてから正座に直った。対局相手が視界から消えると感情を発露する棋士がいるが、藤井は静かに盤上を見つめている。

 戻ってきた豊島が窓の外にぼんやりと視線を向けた。山口県宇部市は闇に包まれている。朝から白煙を噴き上げていた大きな煙突もいまは見えない。窓ガラスに自身が映っているようだったが、何が見えていたのだろう。着座してから宙を見上げ、再び盤上に視線を落とした。もう、豊島は虚ろな眼をしていなかった。気持ちの整理がついたのだ。あとは竜王として最後の責務を果たすだけである。

「負けました」

 豊島が駒台に右手をかざして投了した。すぐに藤井も、頭が盤につくくらい深々としたお辞儀で返した。

 2021年11月13日午後6時41分、藤井が竜王戦第4局を制した。4連勝のストレート決着。藤井は豊島から竜王を奪い、19歳3カ月で史上最年少の四冠に輝いた。

 肩書が九段に変わった豊島は、右手で左手の甲をしきりにさすっていた。新竜王に就いた藤井の表情に変化はない。将棋界で序列1位となったわけだが、喜びを押さえつけているような様子もない。目を細めて盤上を見つめ、いまだに解決していない変化を高速で検討しているようだった。

 2人ともなかなか口を開かない。40秒ほど経ったころ、豊島が「負けですか?」と藤井にポツリと問うた。自分にも勝機があったのではないかというニュアンスだ。藤井は言葉を探しているようだった。豊島が「(自分に有力な代案が)なにかありましたか?」と再び柔らかく尋ねると、「えーっと」と藤井は初めて漏らしたが、言葉にならない。5カ月間でタイトル戦を14局も指した相手に安易なことは言えない。無言が藤井の感情を表していた。

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photograph by Yomiuri Shimbun

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