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箱根駅伝=日テレじゃなかった? テレ東が昭和末期に逃した「箱根駅伝」というドル箱…37年前、スポーツ中継の常識を変えた日テレの“箱根山攻略”  

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高木圭介

高木圭介Keisuke Takagi

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photograph byYuki Suenaga

posted2024/01/03 17:00

箱根駅伝=日テレじゃなかった? テレ東が昭和末期に逃した「箱根駅伝」というドル箱…37年前、スポーツ中継の常識を変えた日テレの“箱根山攻略” <Number Web> photograph by Yuki Suenaga

今年で100回を迎えた箱根駅伝。初めてテレビ中継された1979年は、東京12チャンネル(現テレビ東京)が放送していた

 そんなテレビ中継を阻害していた最大の理由は一にも二にも“天下の険”と謳われる箱根山からの電波送信が難しかったことが原因だ。テレ東におけるゴール中継からさかのぼること10年前(1969年/昭和44年)、人類はすでに月面からのアポロ着陸を中継していたはずだが、箱根山からの駅伝中継は技術的にも予算的に困難を極めていたのだった。

箱根駅伝に懸けた日テレ「箱根の難所をクリアー」

 1987年元日。一般紙朝刊に大々的に掲載された日本テレビによる番宣広告には『初の山岳ロード生中継』『いままでほんの一部しか放映されなかった天下の険、箱根の難所をクリアー。ランナーの熱い鼓動を伝えます』のコピーが躍っている。箱根駅伝が始まって67年、このときの日本テレビの箱根駅伝に懸けるエネルギーの強さが伝わってくる広告だ。

 なにしろ山岳地帯からの完全中継に向けて700人もの人員を導入。中継車は14台、テレビカメラは61台、クレーン車は9台を用意するという大陣容。これがNHKによるものだったら、後年、確実に『プロジェクトX』の題材となっていたことだろう。

 当時の読売新聞記事によると、日テレの技術陣はランナーをとらえる移動中継車からの映像をヘリコプター2機でキャッチし、駒ヶ岳、二子山の中継所、放送センターを通じて本局へと送信する方法を採用。それだけでなく天候不順のためヘリが飛ばせないケースをも想定したうえで、鷹巣山などにも中継機材を設置するなど万全の体制を取っていたそうだ。幸いにして、この日は天候にも恵まれ、ヘリによる中継が見事に成功している。

 それまでの中継では平坦な都心コースにおける力走しか見ることができなかった視聴者にも、呼吸が乱れ、ペース配分も困難を極める「山岳地帯におけるランナーの激走」という箱根駅伝ならではの、もう一つの魅力を伝えることに成功したのだった。また日本テレビによる中継は全国29ネットで放送されていたため、それまで駅伝に関心を抱く機会すらなかった若き陸上ファンへの大きな訴求ともなり、全国に散らばるアスリート予備軍たちに、箱根駅伝への憧れを抱かせる効果もあったそうだ。

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