酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
ドラフト制前の“獲得競争とカネ”「鉄腕・稲尾和久」の意外と知らない伝説 1年目キャンプ「投手失格」で打撃投手になったが…
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph byBUNGEISHUNJU
posted2022/02/23 11:00
西鉄時代の稲尾和久。「神様、仏様、稲尾様」になる前のキャリアは意外と知られていない
春季キャンプ時に、稲尾は半ば「投手失格」という評価で、コーチの中からは「打者に転向させよう」との声も上がった。三原脩監督は「打者ならいつでも転向できる。しばらく様子を見よう」と言ったものの、ブルペンに上がることはなく、稲尾は打撃投手になった。
毎日の持ち時間は1時間。1分間で約8球投げるので、1時間では480球。稲尾は来る日も来る日も打者相手に投げた。当時は、防御ネットなどなかった。主力打者の豊田泰光は、稲尾の集中力が途切れると、わざとピッチャー返しを打ってきたという。
「ボール1個分外へ」「3球に1球はストライクゾーンを外せ」
打者の注文はうるさく、稲尾はそれに応えて投げ続けた。
エース候補の同期が突然「痛い!」
同じキャンプで評価が高かった西原恭治はブルペンで投げることを許されたが、人差し指と中指が関節炎で腫れ上がりリタイアを余儀なくされた。
エース候補の畑は、入団時の契約のもつれでチームの合流が3月下旬になった。合流の翌日に稲尾と畑は外野を走ったが、畑は突然「痛い!」としゃがみこんだ。腰椎分離症を発症したのだ。対照的に稲尾は、打撃投手を続けるうちにどんどん元気になっていった。
ちょっと信じがたい話だが――1975年に出版された自伝『鉄腕一代』には「この、初めてのキャンプで、私は、突然巨人症にかかったように大きくなった。別府を出るときの身長が175cm、体重62kg。ところが1カ月間のキャンプで上背が実に5cmも伸びて、ウェートも5キロほど増えた」と書かれている。
チームメイトたちは「お前、いつの間に大きくなったんだ?」と言ったとのこと。
漁師の倅で魚ばかり食べていた稲尾は、寮の食事がおいしくてたまらなかった。食べたこともない大きなビフテキにかぶりついたという。こうした食生活の変化が稲尾の身体を劇的に変えたのかもしれない。
稲尾の肉体に関する「もう1つの伝説」とは
稲尾には肉体に関する「伝説」がもう一つある。
高校時代、良い回転の直球を投げるためには右手の人差し指と中指の長さを揃えたほうが良いと思い込んで、それから毎日、中指を1回、人差し指を2回引っ張ることを習慣にした。その甲斐あってか、稲尾の右手の人差し指と中指は左手より1センチ長くなったという。
春季キャンプの終わりころになると、黙々と投げる稲尾の投球を中西太、豊田泰光、大下弘ら主力打者は芯でとらえることができなくなった。主力打者は「あいつが打撃投手だと、練習になりません」と三原脩監督に訴え、稲尾はようやく一人前の投手として認められる。