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<引退>「涙は僕のキャラじゃない」MotoGPを明るく照らし続けたスーパースター、バレンティーノ・ロッシのベストレースとは 

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遠藤智

遠藤智Satoshi Endo

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photograph bySatoshi Endo

posted2021/11/19 17:05

<引退>「涙は僕のキャラじゃない」MotoGPを明るく照らし続けたスーパースター、バレンティーノ・ロッシのベストレースとは<Number Web> photograph by Satoshi Endo

最後まで笑顔でサーキットを去った42歳のロッシ。強いだけでなく、ヒロイックなイメージだったグランプリの間口を広げた、レース界最大の功労者でもある

 ロッシを世界的なスーパースターに押し上げたのは、2004年、常勝を誇ったホンダからヤマハに移籍してヤマハに12年ぶりにタイトルをもたらしたシーズンではないだろうか。当時、ホンダRC211Vは圧倒的な強さを誇り、そのマシンにロッシが乗れば、まさに鬼に金棒だった。

 02年にスタートしたMotoGPで、ロッシは02年、03年と2年連続でチャンピオンを獲得したが(500cc時代の01年を含めれば3年連続)、「レースで本気で走ったのは2度だけ」と言われる。はじめは03年のカタルーニャGPで、優勝争いをしていたロッシがレース後半にコースアウトを喫し6位に後退。そこから猛列に追い上げて2位でフィニッシュしたとき。もう1レースは、同年のオーストラリアGPでトップを走っているときにイエローフラッグ無視のペナルティを課せられ10秒加算。その10秒分を引き離そうと猛然とスパートして優勝したレースで、本気になったロッシとRC211Vの組み合わせは最強だった。

弱小チームでのチャレンジという選択

 まさに敵なしの状態だったロッシだが、03年のシーズン開幕に向けてホンダと契約でもめていた。さらに、開幕戦日本GPで、ロッシの最大のライバルとして注目されていた「大ちゃん」こと加藤大治郎が事故で亡くなる。この年、圧倒的な強さで最高峰クラス3連覇を達成して04年ヤマハに移籍したロッシだが、もし、大ちゃんが事故に遭わず、ロッシとバトルを繰り広げていたら、彼は移籍を決断できたのだろうかといまでも思うことがある。

 なぜなら、当時のヤマハのMotoGPマシンYZR−M1は、ホンダRC211Vの前にまったく歯がたたない状態だったからだ。ホンダは03年シーズン全16戦15勝。残り1勝はドゥカティでヤマハは未勝利。YZR−M1の「1」は「Impossible」の「I」だと揶揄されるほど遅かった。

 そのヤマハで果たしてロッシは勝てるのかと注目を集め、世界中が04年の開幕戦に熱い眼差しを注いだ。その南アフリカGPで、ロッシはホンダでエースとなったマックス・ビアッジと熾烈な優勝争いを繰り広げ、見事、優勝する。ロッシ自身はこのレースを、最高峰クラス89勝の中でベストレースのひとつに挙げている。なぜなら、速さでも数でも圧倒的優勢のホンダ勢を相手にしての勝利だったからだ。

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