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「自分たちのサッカー」とは何か? 「指導者ライセンス」に“代表経験”は関係あるか? 躍進ザルツブルクのアカデミーで得た知見 

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中野遼太郎

中野遼太郎Ryotaro Nakano

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posted2021/11/19 17:01

「自分たちのサッカー」とは何か? 「指導者ライセンス」に“代表経験”は関係あるか? 躍進ザルツブルクのアカデミーで得た知見<Number Web> photograph by Getty Images

ザルツブルグのアカデミーを訪れ、CLを現地で観戦する機会に恵まれたという中野氏。平均年齢22歳のチームを率いるマティアス・ヤイスレ(33歳)にも大きな刺激を受けた

 レッドブル・グループのサッカー哲学の1つに『ピッチ上の全員が同じユニフォームを着ていても、どの11人が自分たちの選手か分かる』というものがある。

 これは哲学や理想が口から語られるだけではなく、ピッチで体現されるものとして浸透していないと成し遂げられるものではない。そしてそれは、この要塞の傾斜下でひっそり行われているアカデミーの試合一つをとっても、(少なくとも僕の目には)成し遂げられているように見えた。

 レッドブル・グループには「レッドブルのサッカー」というものが存在する。根幹にはスポーツディレクターとして礎を築いたラフル・ラングニックの哲学があり、その明確なアイディアを原理として、それぞれの地域、チーム、指導者が各地で発展させている。

 その戦術的詳細は他に譲るが、この「自分たちのサッカー」というフレーズは、こと日本においては盲目的な信仰、あるいは一種のアレルギーを生んでいるように思う。細部に徹底的にこだわる国民性も手伝って、手段の目的化(つまり自分たちのやりたいサッカーを遂行すること『それ自体が』目的になってしまうこと)に帰結する事例が多いからかもしれない。

「じゃんけん」に置き換えてみる

 しかし、たとえば「自分たちのサッカー」をじゃんけんに置き換えて考えてみると、自分たちは「徹底してグーを出す」と決めると、トレーニング構築の面でも、人材選定の面でも要求が明確化されるので「次はなにを出すか」という次元から、「どれだけ速く、力強く、繰り返し『グー』を出せるか」という実行精度を問うフェーズを日常にすることができる。グーを出せそうな選手を集めて、グーを出すためのトレーニングを積み、試合でグーを出す。実行、修正、アップデートがある限定された領域に特化していくので、知見は早く、深く蓄積されていく。

 ここで重要なのは「パーに負けてしまうこと」ではない。グーに勝つのはパーである、と相手が見抜くこと自体に価値はなく、現代サッカーにおいては見抜かれることもまた前提の一部である。相手にとって必要なのは「実際にパーを出すこと」であり、そして言うまでもなく、サッカーという複雑な競技において「繰り返し、正確に、パーを出す」というのは簡単ではない。「分かっていても(見抜いていても)止めることができない」武器を持つのは、強豪クラブの条件と言えるかもしれない。

 さらに自分たちがグーを出すことを宣言することは、多くの場合で相手にパー(か、とても強いグー)を出すことを強要するので、ゲーム内容の方向性をこちらから提示することができる。グーを出すことを目的ではなく勝利のための手段と捉えることができれば、「自分たちのサッカー」を突き詰めることには、やはり一定の利があると言えるだろう。

 そしてこのレッドブル・グループには、明らかな指針があり、実行のための方法論があり、実行する環境があり、実行の後の検証がある。アカデミーの試合でさえ体現されていたように『見れば分かる』というのは、自分たちのサッカーの存在証明であり、『それでいて勝つ』というのは、その哲学に説得力を持たせている。予算があれば誰でも作れる、という類のものではない。

【次ページ】 「自分たちのサッカー」の継続に必要なこと

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